×

ニュース

[フィーチャー] 広島の味 お好み焼きと歩む オタフクソース あす創業100年

普及後押し 研修施設も

 お好みソースなど製造のオタフクソース(広島市西区)は26日、創業100年を迎える。しょうゆや酒の卸販売業に始まり、広島名物のお好み焼きの浸透とともに事業を拡大してきた。中国、米国、マレーシアにも生産拠点を構える今、次の100年に向けて広島の食文化を世界に広めようとしている。(政綱宜規)

 本社隣の「WoodEgg(ウッドエッグ)お好み焼館」に、お好み焼き店を開きたい人向けの研修施設がある。奥行き80センチ、幅4・5メートルの鉄板で調理法を伝え、立地の相談や融資先の紹介にも携わる。アレンジしやすい素朴なレシピは同社の秘伝という。

 販路拡大だけでなく、食文化の普及に貢献しようと2008年に開設。延べ約9千人が受講した。指導するお好み焼課の山本真一チーフスタッフ(55)は「転職や脱サラなど人生を懸けて来る人ばかり。商売繁盛のため全力でぶつかる」。12年に受講し、安佐南区に「大人のお好み焼きカテカテ」を開いた梅田幸生さん(38)は「注文を受けて焼くまでの流れや売り込み方を実践形式で学べた」と感謝する。

改良を重ねる

 佐々木商店として1922年に創業したオタフクソース。38年に酢の製造を始めてメーカーに転じたものの、原爆で西区横川町の工場を焼失した。お好みソースの原点は、50年発売のウスターソース。扱う卸売業者が見つからず、地元のお好み焼き店に飛び込んだことが誕生につながった。各店の専用ソースを作ろうと試作を重ね、塩気を抑えて粘度を高めたお好み焼き向けソースを52年に売り出した。

 同社はウッドエッグの研修を「恩返し」と表現する。背景にあるのは50年代から続く、お好み焼き店への感謝だ。トマトやデーツなど約50種の食材を調合する現在のお好みソースは、客の要望を聞きながら改良を重ねてきた。80年代に有名店用ソースを担当した開発課の藤田陽子さん(67)は「煮込み感が欲しいなど、難しい要望も多かった。だからこそいいものが生まれた」と振り返る。

 安全性や品質の確保にも苦労した。69年には原料の一つだった人工甘味料チクロが、発がん性があるとして欧米での使用が禁止されたのを受け全品回収を決めた。かつての手作りソースは、容器内でガスが発生し破裂することがあった。これも78年の工場移転に伴い、釜からプレート型ヒーターで満遍なく加熱することで解決した。

商圏は世界に

 「昭和」「平成」「令和」と親しまれてきたお好みソースなどの液体調味料。現在は年約5万キロリットルを生産し、東南アジアや米国など約50カ国で計約2千品目を売るまでになった。

 商圏が世界に広がる中、イスラム教の戒律に従った「ハラル」やアレルギーへの対応など食文化や体質に合わせた商品開発を加速させる。開発課で入社3年目の網代千紗(かずさ)さん(25)は「求める味を真剣に追う先人の姿勢を受け継ぎつつ、次世代の新しいおいしさを開拓したい」と誓う。

【記者の目】

育ててきた味 未来へ継承を

 何げなくお好み焼きにかけていたソースには、地元の飲食店関係者の知見とアドバイスが詰まっていた。現在も料理人の舌が開発の指針という。技術の進歩で甘みやうまみが数値化できるようになったが、先人たちが育ててきた味を受け継いでほしい。

  --------------------

食文化発信 これからも 佐々木社長に聞く

 時代とともに事業を変化させてきたオタフクソース(広島市西区)。8代目の佐々木孝富社長(54)は「食を通じて幸せを広げたい思いは今も昔も変わらない」と力を込め、広島から世界に食文化を発信し続ける決意を新たにする。(政綱宜規)

 ―創業100年をどう振り返りますか。
 創業者の妻で祖母ハヤの言葉「幸せを売れたらええね」という言葉をずっと大切にしている。卸小売業から液体調味料、お好み焼きの企業へ変化してきたが、「コト」を売り、作り方を伝え、食文化を広めるという使命は一貫している。

 ―会社にとってお好み焼きはどんな存在ですか。
 広島の戦後復興に寄り添い育ってきたメニューで、平和の象徴と言えるだろう。世界中のどこでも食材が手に入る料理でもある。それぞれの国の食文化やアレルギー、禁忌に対応できる懐の深さを持つ。今のお好み焼きの味はプロの料理人の意見の積み重ねがあったからできた。自信を持って世界へ推したい。

 ―お好みソースなどの味へのこだわりは。
 ソースはあくまでサブ。お客の意見を聞き、どうすれば主役の料理がおいしくできるかを考えてきた。作り手と一緒に素材や製法を考え、共感してきたから今の味がある。

 ―次の100年をどう見据えますか。
 高齢化などで食品の国内市場は縮小し、競争は激しくなっている。今こそお客が求めるものを理解し、共感する原点に立ち返る。他社や大学とも連携し、商品価値や開発力を高める。食文化を広める取り組みを海外でも展開したい。

 ―広島への思い入れは。
 地元なくして会社はなく感謝しかない。博物館のウッドエッグを造ったのも、地元のお好み焼き文化や関連する情報を残したいと思ったから。今後も本社を広島から移すつもりはない。規模が大きくなっても広めるのは広島の味だ。

(2022年11月25日朝刊掲載)

年別アーカイブ