×

連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <4> ストライキ

片山潜ら労働運動盛り上げ

 広島県沼隈郡(現福山市)の山本滝之助が「田舎青年」を出版した明治29(1896)年、同じ中国地方の田舎出身で米国での刻苦勉励を経て12年ぶりに帰国した人物がいた。後に社会主義の指導者となる片山潜(せん)である。

 片山は美作国久米南条郡羽出木(はでぎ)村(現岡山県久米南町)で生まれた。幼くして父と離別し、母を助けて田畑で働く。山々に囲まれた里に築200年余の生家が今も残る。

 長男の山本と違い、次男の片山は母の許しを得て学問のため上京した。「米国は貧乏でも勉強できる所」と聞いて明治17(84)年、24歳で渡米する。キリスト教徒となり皿洗いや学僕などの傍ら勉学。労働者の地位向上の必要性を感じて社会問題を探究し、エール大を卒業した。

 明治30(97)年3月、外国人宣教師の支援で日本最初の隣保館を東京の神田三崎町に開く。夜学校で勤労青年に英語を教え、幼稚園も開設した。この頃はキリスト教に基づく社会改良運動家だった。

 同年7月には、米国で労働運動を学んだ同志と労働組合期成会を設立した。日清戦争が終わって2年。清からの賠償金で工業が活況を呈す一方、庶民は物価高騰に苦しんでいた。片山たちは待遇改善を経営側に迫るストライキの効力を演説会で説き、大きな反響を呼んだ。

 期成会の入会者は半年で2千人に達した。武器製造の砲兵工廠(こうしょう)などで働く鉄工職工千人余は同年12月、鉄工組合をつくった。国内初の労働組合である。片山は組合書記と機関紙「労働世界」の主筆を兼ねた。

 解雇や賃金差別などの妨害に対し、片山たちは組合員の結束を固める一方で経営者に善処を要望。聞き入れられない場合は各新聞社に実情を知らせ、機関紙の臨時発刊や演説会開催で社会に訴えた。

 明治31(98)年2月には、日本鉄道の機関職工たちが大規模なストライキを断行して完全勝利を収めた。各地の紡績工、染め物工、船大工、塩田稼ぎ人なども次々に立ち上がり、ストライキが流行語となる。

 労働運動を規制する法律はまだなかった。片山たち期成会の幹部は東北各地を回り、運動盛り上げのための演説会を開く。近代労働運動の勃興期だった。(山城滋)

片山潜
 1859~1933年。幼名は薮木菅太郎。庄屋で人望の厚い祖父の薫陶を受ける。明治の労働運動や社会主義をリード。50代半ばから米国、旧ソ連で国際共産主義運動の指導者。モスクワで死去。

(2022年11月25日朝刊掲載)

年別アーカイブ