×

ニュース

[ヒロシマの空白 証しを残す] 被爆直後の医学者手記 遺族ら出版

有らゆる生物を殺戮し枯死せしめる本爆弾の威力は真に想像に絶する

広島出身・木本誠二さん執筆 占領下で未発表 「幻」の原稿

 広島市出身で東京大教授などを務めた医学者の木本誠二さん(1995年に87歳で死去)が広島で被爆してから約2カ月のうちにつづった手記を、遺族と研究者が冊子にして自費出版した。雑誌社の依頼で被爆直後に書かれたが、原爆を投下した米軍が率いた連合国軍総司令部(GHQ)の占領下、結局出版されなかった幻の原稿。自身の体験と被害の概要を科学者らしい冷静な観察で伝える貴重な一編だ。(編集委員・水川恭輔)

 木本さんは07年に広島市で生まれ、広島一中(現中区の国泰寺高)などを経て東京帝大(現東京大)医学部に進学。44年に同大の外科の助教授に就いたが、45年6月にけがをした父の見舞いのために帰郷し、その間に自身も体調を崩して広島市内にとどまっていた。8月6日は爆心地から約3キロの牛田町(現東区)の生家で被爆した。

 手記の題名は、「原子爆弾空襲の體験(たいけん)」。現存するのは木本さん本人の肉筆原稿ではなく、地震工学者の故金井清さんの助手が45年10月15、16両日に書き写した原稿用紙17枚。原本は現在も所在不明だが、書写に先立って書かれたことは確実だ。金井さんは被爆後の広島で被害調査をしており、木本さんとは一中の同級生。4年前、原爆資料館(中区)に寄贈された金井さん関連の資料の中からこの17枚が見つかった。

 手記は「猛烈な明光」の後、板間から土間に降りようとした時、爆風に襲われたと記す。「身體(からだ)は一回轉(てん)して土間に叩(たた)き付けられ、左の耳はガンとして鼓膜が破裂した様に感じ、家屋の破壊音と共に屋根瓦がバラ〳〵(バラ)と室内に落下して来た」。右足にくぎが刺さり、けがをした。

 「衣服も燃え全身焼け爛(ただ)れ乍(なが)ら人の肩に縋(すが)って逃げる者」。近くに避難してきた負傷者の悲惨な姿に加え、放射線による死もつづっている。「一ヶ月も經(た)った後に頭髪が抜け始め、強烈な放射線の後障碍(がい)を受けて僅(わず)か四、五日の中に卒然として鬼籍(きせき)に入る者が又夥(おびただ)しい數(かず)に上って居る」「有らゆる生物を殺戮(さつりく)し枯死せしめる本爆弾の威力は真に想像に絶する」

 冊子化は、金井さんの資料を整理してきた地震工学者の工藤一嘉さん(79)=東京都=が今年春に「多くの人が読めるように」と発案。木本さんの長女松田雅子さん(84)=埼玉県狭山市=と孫の木本武士さん(57)=東京都=が賛同した。英文学者のおい山内久明さん(88)=同=が注釈の執筆に協力した。

 出版に先立ち工藤さんたちは、松田さんが受け継ぐ木本さんの資料も調査。81年の医学誌に寄せた回顧録に「自分の原爆体験を戦後間もなくある雑誌に書いたが、GHQによって差し止められた」との記述を見つけた。GHQは45年9月19日、原爆報道も検閲の対象とするプレスコードを発していた。

 手記の文中にも雑誌社の依頼で書いたとあり、45年10月刊の「日本医事新報」に掲載予定だった可能性がある。金井さんの資料の中に当時東京帝大医学部教授だった故都築正男さんの同誌掲載の論文「原子爆弾による廣島市の損害に就(つい)て」の筆写原稿もあったことなどが理由だ。ただ、木本さんの手記だけ載らなかった経緯は明らかでない。

 木本さんは同大で指導を受けた都築さんたちと被爆者の健康影響調査にも携わった。だが被爆手記の存在は知られてこなかった。松田さんは「冷静に記録した手記ではあるが、父は泣きながら書いたと思う。若い人が平和について考えることに役立ってほしい」と話す。冊子は原爆資料館の情報資料室などで読める。問い合わせは工藤さん kazu‐kudo@tcn‐catv.ne.jp

最初期 貴重な資料

原爆手記を研究する宇吹暁・元広島女学院大教授の話
 広島で被爆した人が公開を前提に書いた手記で最初期のものといえる貴重な資料。日本人研究者による原爆被害調査の成果を知り得る立場だっただけに、早くも被害の概論が記されている点も特徴的だ。

(2022年11月28日朝刊掲載)

年別アーカイブ