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遺品 無言の証人

[無言の証人] 異形の爪/抜けた頭髪/血が飛び散った掛軸

 原爆資料館(広島市中区)に並ぶ被爆資料は、熱線や爆風、放射線のすさまじさを明々白々と伝える。被爆者の着衣や持ち物といった遺品は、たった一発の原爆に奪われた命や突然断ち切られた人々の営みについて考えさせる。同館にはほかに、原爆が人間の肉体にもたらした傷や痛みを知らしめる資料も多くある。生々しく、時に目を背けたくもなる。それでも私たちは目をこらさなくてはならない。77年前の悲惨を肌感覚で理解するのが難しい今、核兵器が使われたらどうなるか―その現実を胸に刻みたい。(森田裕美)

異形の爪

被爆の実情 伝える決意

 長さ1・5センチほどの弧を描いた黒っぽい塊。被爆者としてヒロシマを伝え続けた元原爆資料館館長、高橋昭博さん(2011年に80歳で死去)の右手人さし指に生えていた爪である。

 高橋さんは14歳の時、爆心地から1・4キロの旧制広島市立中(現基町高)校庭で被爆。大やけどを負い、生死の境をさまよった。一命を取り留めても右肘と右手の指は動かぬまま。人さし指の爪の根元にはガラス片が突き刺さり、以来そこから黒ずんで変形した爪が伸び続けた。厚みがあり自分では切れない。ある程度伸びたところで根元に亀裂が入り、自然に折れるまで放置するしかなかった。

 「自分の指先にいつまでもついて回る原爆の恐怖を感じる。生の資料として活用してほしい」。高橋さんは生前そう語り、爪が取れるたび資料館へ寄贈していた。同館には、亡くなる半月前に取れた爪を含め8点が収められている。

 ただ、自身の体の一部を「資料」として見せることには、当初ためらいもあったという。「それでも最終的には被爆の実情を伝えることの方を重視したんです」。妻・史絵さん(85)=西区=は振り返る。

 「命が燃え尽きるまで証言する」と語っていた高橋さん。声が出なくなってはいけないと、病床でも発声練習をして喉を鍛えていた。アエイウエオアオ、カケキクケコカコ…。亡くなる前日は、カ行まで頑張った。「サ行は明日」。そう史絵さんに約束し、あの世に旅立った。

 高橋さんが残した小さな塊には執念が宿っている。

抜けた頭髪

一度にばさり 死を覚悟

 つややかな黒髪だったに違いない。時を経て少し色あせたその髪の主は、被爆当時18歳だった山下博子さん(2014年に87歳で死去)。被爆から2週間ほど過ぎた8月21日にごっそり抜け落ちたものだという。

 博子さんが被爆したのは爆心地から約800メートルの大手町。当時6歳の弟と自宅の1階にいて壊れた家の下敷きになった。何とかはい出して弟を助け、はだしのまま火の手が上がる市中心部から逃れた。

 家族と再会できたのは1週間後。その後は郊外の親戚の家に身を寄せるも、両手や肩、両脚にひどいやけどを負った博子さんは起き上がれないほどの重体だった。ある日、洗うこともできず三つ編みにしていた長い髪を母親の恭(きょう)さん=当時(46)=にすいてもらうと…。一度にばさっと抜けた。

 同じ頃、一見元気だった弟にも異変が起きる。短い髪は抜け、急に高熱を出したかと思うと鼻血を大量に出し、吐血して3日後に亡くなった。一緒に被爆した博子さんも死を覚悟したそうだ。家族も同じ思いだったのだろう。抜けた頭髪は、「万が一のときには形見に」と、恭さんが仏壇で大事に保管していた。

血が飛び散った掛軸

ガラス片で負傷 痕残す

 あの日、広島でどれだけの血が流れたのだろう。

 爆心地から約2・6キロ離れた段原日出町(現南区)の民家にあった掛け軸には、血しぶきの痕が残っている。この家のあるじだった廣本東四郎さん=当時(52)=のものだ。

 暑い朝だったに違いない。東四郎さんはふんどし一枚で自宅にいたところを被爆した。爆風によって飛んできたガラス片で負傷。床の間に掛けていたこの軸に血が飛び散ったようだ。仏間から仏壇が飛び出しており、とっさにその隙間に逃げ込んだという。

 9人の子がいた東四郎さん。子らの身を案じてすぐに捜しに出かけたものの、学徒動員で建物疎開作業をしていた三女=当時(14)=は全身に大やけどを負い、翌日死亡。市内の病院に出掛けた五女=当時(6)=の行方は分からないまま。東四郎さんは1982年89歳で世を去った。

 掛け軸は2002年、六女の紀美子さんによって寄贈された。

(2022年11月28日朝刊掲載)

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