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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <5> 社会主義者 抑圧された運動 活路求める

 工業化が進む一方でさまざまな格差が広がった日清戦争後。山本滝之助は中央に見捨てられがちな地方青年の組織化を手掛け、片山潜(せん)は低待遇や物価高にあえぐ都市勤労者を労働組合に結集させた。

 山本の活動は統治機構に組み入れられ、やがて青年団の全国組織に結実する。それと対照的に労働運動は国家権力に抑え込まれ、片山は社会主義に活路を見いだした。

 明治31(1898)年4月、労働組合期成会が計画したメーデーに当たる行進と集会を警察が直前に禁止する。この頃から片山が主筆を務める鉄工組合の機関紙「労働世界」に社会主義的な記事が増え始めた。

 労働運動の台頭を恐れた第2次山県有朋内閣は明治33(1900)年に治安警察法を施行した。労働組合の活動を実質的に禁じ、日本の近代労働運動の芽は摘み取られた。

 反発するように明治34(01)年5月、片山と幸徳秋水、安部磯雄ら6人が社会民主党を結成した。直ちに結社禁止となるが、彼らの社会主義は暴力革命論とは無縁だった。普通選挙実現により労働者のための政治を目指す議会主義を採っていた。

 社会主義者が結束して反戦を唱えた日露戦争の後、幸徳は無政府主義に基づく直接行動論に転じて同志を増やした。明治39(06)年に結成された日本社会党は、幸徳派と穏健な議会主義の片山派に分裂する。

 キリスト教的な社会改良から出発した片山は、幸徳が「鉄のごとき」と例えた強靱(きょうじん)な意志で労働運動の現場に立ち続けた。民権運動から社会主義に入った幸徳は、文章や演説はさえ渡るが現場を持たなかった。

 直接行動主義者による大逆事件で幸徳らが明治44(11)年に死刑となり、社会主義は冬の時代に。片山は普選運動を継続するが、頑固で個人主義的な振る舞いが仲間に敬遠されて孤立する。大正3(14)年に渡米後は共産主義者となって帰国せず、国際共産主義運動コミンテルンの指導者として旧ソ連にとどまった。

 片山の生家である岡山県久米南町の薮木家には「戦前、潜から届いた手紙は全て警察の人が持って帰った」との話が伝わる。近くに片山を顕彰する小ぶりな記念館が1990年に建てられた。(山城滋)

 初期の社会主義 社会民主党は軍備縮小、貴族院や治安警察法廃止、普通選挙などを求めた。片山は労働組合主義、安部はキリスト教的人道主義、幸徳は民権左派自由主義が基盤。広い意味での社会主義者たちだった。

(2022年11月26日朝刊掲載)

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