×

連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <6> 民党の変質 初の政党内閣に軍部の縛り

 日清戦争を境に政治の景色が変わった。衆議院で過半数を占める民党(野党)は、対立を繰り返してきた藩閥と連携の時代に入る。

 自由党が第2次伊藤博文内閣と手を結び、次に進歩(旧改進)党が第2次松方正義内閣と連立を組んだ。与党入りした政党は、もはや民党とは呼べなくなった。

 それもつかの間、藩閥が地租増徴を仕掛けて合従連衡は崩れ去る。ロシアに対抗する軍備拡張と国内開発の財源づくりが狙いだが、地主層を基盤とする政党は激しく抵抗した。

 政界混乱の末に明治31(1898)年6月、初の政党内閣が生まれた。大隈重信首相(元進歩党)に板垣退助内務大臣(元自由党)。両党が合併した憲政党の総選挙圧勝が確実となり、藩閥側が政権を投げ出した結果である。戦後3年だった。

 「明治政府の落城」と嘆いた山県有朋だが抜かりはない。明治天皇が大隈と板垣に組閣を命じる際、陸軍、海軍大臣は勅命で決めるよう手を回す。天皇は異例にも桂太郎陸相と西郷従道(つぐみち)海相の留任を命じた。

 親任式の前、桂は大隈に対し勅命を後ろ盾に「大隈伯が率いる政党の主義は従来軍備縮小だが、新首相はいかなる方針か」とただす。大隈は「今までの国防施設で必要なものは行うべきだ」と答えた。

 桂は「新内閣は軍備縮小の方針でない。必要なものは施設すると了解してよいか」と確認を求め、大隈に「然(しか)り」と言わせた。政党内閣はこうして出足から軍に縛られる。

 政党側が国会開設以来の軍縮主張を通すには陸、海相に軍人以外を充てる選択肢もあった。天皇の勅命に異を唱え、認められなければ組閣を断念すればよかった。

 だが、大隈と板垣は天皇の命に従順だった。棚ぼた式政権の準備不足もあろうが、日清戦争を経て彼らも膨張政策に沿った軍拡の必要性を大筋で認めていた。軍縮主張は民力休養という財政的理由が主だった。

 民党の変質は明治17(84)年に自由党機関紙の自由新聞が掲げた国権拡張論にさかのぼる。欧米のアジア侵略に対し「わが国も近隣から海外着手を」と主張。民党の対外膨張志向は藩閥と手を握る素地となる。

 明治33(1900)年に旧自由党勢が伊藤博文総裁の立憲政友会に合流し、政党と藩閥の境界はさらにあいまいになる。(山城滋)

 日清戦争後の軍拡計画 海軍は戦艦6隻と巡洋艦6隻の建造、陸軍は6個師団の増設。10年間で計2億8千万円と巨額のため清国からの賠償金だけでは賄えず、間接税アップとともに地租増徴が課題となった。

(2022年11月29日朝刊掲載)

年別アーカイブ