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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <7> 軍拡の罠 陸・海相 政党手出せぬ聖域に

 日清戦争後に大陸への膨張政策が国策となるが、その対立軸となる考え方もあった。明治6(1873)年、岩倉使節団副使として欧米から帰った大久保利通は西郷隆盛らの征韓論への反対意見書をまとめる。

 その中で大久保は、仮に戦いに勝って領土を得ても朝鮮侵攻は得策でないと主張した。朝鮮民族の抵抗運動を必ず招いて国力を消耗させる割に得るものは少なく、朝鮮を領有すればロシアや清と国境を接して不慮の災いを来す、と理由を挙げた。

 自由民権運動家の中江兆民も明治15(82)年、朝鮮内乱の壬午(じんご)事変を念頭に自由新聞の社説で出兵介入の非を説く。「小国として独立を保つには信義を堅守して動かず」と。専守防衛的な小国主義だった。

 これらの対極が、明治23(90)年に山県有朋が唱えた自国に接する「利益線」(朝鮮を指す)防護のための軍拡路線である。利益線の防護は朝鮮支配を巡る日清戦争を招き、戦勝後は大久保の予言通りロシアとのいさかいに発展する。

 かつての民権運動家たちが結集した民党だが、小国主義は引き継がれなかった。憲政党による初の政党内閣は、自由党系と進歩党系の分裂で4カ月で総辞職となる。その間、軍拡目的の増税のレールを敷いた。

 地主層に配慮して地租増徴はせず、酒税増徴やたばこ専売価格アップ、砂糖税導入である。貧困層を窮地に追いやる間接税依存だった。

 後継の第2次山県内閣は地租増徴にこぎ着け、軍拡のさらなる原資を確保した。米価高騰で地主の地租負担が下がり、地域振興予算と引き換えに旧自由党系が受け入れた。

 さらに山県は明治33(1900)年、軍部大臣を現役の大将、中将に限ると定めた。陸、海相は政党が手を出せない聖域となる。以降、首相が軍縮を目指しても軍部は大臣を送り出さないことで拒否できた。周到な山県による軍拡の罠(わな)と言うべきか。

 増税が国民生活に重くのしかかる中、軍備増強は着実に進んだ。

 広島では上水道を含め兵站(へいたん)全般を担う軍都の基盤が整った。呉鎮守府の造船部門などは明治36(03)年11月に呉海軍工廠(こうしょう)になり、軍港都市膨張の礎となる。日露戦争が始まる3カ月前だった。(山城滋)

呉鎮守府
 海軍が明治19年に設置を決め、23年に天皇行幸による開庁式。紀伊半島西側から九州東側までの第2海軍区の軍港になる。鎮守府のうち造船と兵器製造部門が日清戦争で脚光を浴び、造船廠・造兵廠を経て海軍工廠に発展。

(2022年11月30日朝刊掲載)

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