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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <8> 日露開戦 韓国の支配巡る不安根強く

 宮島(廿日市市)の千畳閣の柱を覆うおびただしい数のしゃもじ。宮島参拝をした兵士たちは「めし取る」にあやかって宇品港から戦地へ赴いた。明治37(1904)年2月に始まった日露戦争時の写真である。

 韓国支配を巡って起きたという点で、日露戦争は9年前の日清戦争の延長線上にある。「朝鮮出兵」を命じた豊臣秀吉ゆかりの千畳閣は戦勝祈願にふさわしい空間だった。

 日清戦争後に西欧列強による中国分割が始まると、ロシアは日本が清に返した遼東半島の旅順と大連を租借した。義和団事件を経てロシア軍は満州(中国東北部)に居座る。

 対抗して日英両国が明治35(02)年1月に同盟を結んだ。慌てたロシアは満州からの撤兵を清に約束したが、明治36(03)年4月の第2次撤兵期限を守らなかった。

 日本国内はざわつく。東京帝国大教授ら7博士が同年6月、桂太郎首相に建議した。「ロシアは満州のみならず韓国まで目を向け、日本の防衛も危うくなる」。ロシアに満州撤退を迫る即時行動の主張だった。

 ロシアは韓国の森林資源に手を伸ばす。ロシア皇帝は8月末、政府の対日宥和(ゆうわ)派を失脚させた。和平の希望は消えたと東京朝日新聞などは開戦論を唱えた。ロシアが第3次撤兵を見送った10月以降は大半の新聞が開戦やむなしに傾く。

 一方で、暮らしや経済を圧迫する戦争を望まない人々も多かった。最大政党の政友会幹部で大阪新報社長だった原敬の日記に「国民多数なかでも実業人は最も戦争を嫌っていたが、表だって主張する勇気がなく心ならずも戦争となった」とある。

 韓国を他国に渡したら日本が危ないという安全保障観が厭戦(えんせん)気分を押し切った。帝国主義的な大陸膨張への道だった。

 その対極は、専守防衛の小国主義あるいは通商立国だろう。政党側はそうした対抗軸を明確に示すことができなかった。富裕化する地主層に支えられる政党にとって、非戦を唱える社会主義者(無産者)と連携することも難しかった。

 軍拡路線を歩む桂内閣は、元老を交えた御前会議でロシアとの交渉打ち切りと開戦を決めた。(山城滋)

 義和団事件 欧化政策に反対する清の民衆軍の義和団が明治33年6月、列強公使館のある北京に迫り、清朝政府も列強に宣戦布告。列強8カ国連合軍が8月に鎮圧し、その主力は第五師団などからなる日本軍だった。

(2022年12月1日朝刊掲載)

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