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戦争加担の法話 門徒に謝罪 三次の浄土真宗本願寺派西善寺・小武住職 祖父が残した「負の歴史」 平和活動の原動力に

 戦前の法話ノート2冊が、浄土真宗本願寺派西善寺(三次市)に残っている。2代前の住職が残したもので、日中戦争が始まる4年前の1933年から太平洋戦争にのみ込まれていった時代にかけての山あいの寺の記録。戦争に加担した「負の歴史」を刻んだ言葉が並ぶ。孫で現住職の小武正教さん(65)はこの夏、門徒たちに謝罪した。太平洋戦争開戦から間もなく81年。平和運動に長年携わってきた小武さんに思いを聞いた。(山田祐)

 ≪国民一人一人が、自分さえ良ければ良いという生活をしておったら、いわゆる粉のような生活をしておったら(中略)東の方からアメリカが「ハックショ」と言えばすぐに吹き飛ばされてしまう。だからわれわれは粉であってはなりません。(中略)日本帝国という大団子とならなければなりません。その団子のかための水は何か。これがいわゆる弥陀(みだ)(阿弥陀仏)の法水。ご法義であります。≫

 小武さんの祖父の故憲正(けんしょう)さんが門徒たちに説いた言葉だ。日付は不明だが「非常時中の非常時」との記述があり、太平洋戦争の開戦が迫った時期と考えられる。戦争に向かって団結するよう呼び掛ける内容。人々を「粉」にたとえ、それを固めるための水が「浄土真宗の法義」だと主張している。

 ノート2冊は、いずれもA5判で96ページと132ページ。インク書きの原稿で埋まる。冒頭の言葉と同様に大半が日付不詳だが、住職となって初めての法話は明記してある。昭和8(1933)年10月14日、日清、日露戦争で戦死した地元出身の兵士を慰霊する「招魂祭」で登壇している。

 その締めくくりは、「世界唯一の君主国たる日本の今日あらしめたのは、家を捨て子を捨て我(われ)を忘れて己を尽くすというこの犠牲的大精神であります」。同じフレーズは他の原稿でも繰り返し登場する。

 「聞く人の情に訴えながら、気持ちを戦争に振り向ける言葉ばかり」と小武さん。仏教界が戦争へと突き進む国に全面的に協力していた時期とはいえ、「地元の門徒さんたちに直接伝えたのは祖父。その事実は重い」と声を落とす。

 2冊は、龍谷大(京都市)大学院生だった小武さんが住職となって寺に戻った23歳の頃、自宅を整理中に見つけた。

 小武さんは念仏者九条の会共同代表を務め、平和運動に長年身を投じてきた。ウクライナに侵攻したロシアや、市民弾圧が続くミャンマー国軍への抗議活動などを続けている。

 「祖父自身が戦後、自らの過ちをどのように受け止めていたのか、ずっと気に掛かっていた」。反省の言葉を残しているのでは。戦後に発行した寺報などを探し続けた。だが戦争に反対しなくてはいけないという記述はあっても、門徒への謝罪の言葉を見つけることができなかった。

 ことしに入り、戦後の日誌の中に「終戦となり教育方針も大変革の上、新しく再出発」との記述を見つけた。小武さんは「間違ったことをやってきたという姿勢が感じられないまま次のステップを歩もうとしている。ショックを受けた」という。

 現在の門徒の中には、法話を聞いて戦地に赴いた人の子や孫もいる。謝罪の思いを自らの言葉で伝えるべきだと決断し7月、本堂で開いた法座で2冊を紹介。参列した約20人に「(戦地に行く人々への感謝が)阿弥陀様への感謝と一体となって語られていた。誠に申し訳ないことであります」と頭を下げた。

 小武さんは憲正さんが亡くなって2年後に生まれており、直接の面識はない。門徒への謝罪の言葉はなかったが、ノートを残したことは「お釈迦(しゃか)様の殺すな、殺させるなという教えに背くことを説いてはならないという、私への遺言と受け止めている」。その思いを、平和に向けた活動を続ける原動力としている。

(2022年12月5日朝刊掲載)

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