×

ニュース

原爆孤児 祖母の墓どこに 9歳で被爆 大阪の友田さん 体験語り 感謝再び

 袋町国民学校(現袋町小、広島市中区)で9歳の時に被爆して原爆孤児になり、一時期は朝鮮半島に渡った友田典弘さん(86)=大阪府門真市=が祖母、西田トラさんの墓を探し歩いている。「日本への生還を助けてくれた祖母に感謝したい」。11月下旬、3度目の墓探しで広島市内を巡った友田さんに同行した。(湯浅梨奈)

 「川に架かる橋のたもとにあったはず…」。友田さんは知人が運転する車から外を見つめ、記憶をたどった。支援者の徳丸達也さん(70)=佐伯区=たちといくつもの墓地と寺を訪ね歩いている。実は10年以上前に墓参りをしたことはあるが、その場所を知る親戚が亡くなり、手掛かりを失った。長い間広島を離れていた友田さんは土地勘に乏しく、地名にも不案内だ。

 友田さんにとって、祖母は数少ない身寄りで特別な存在だった。

 1945年当時は袋町国民学校の4年生。父は病死していたため、母と弟との3人暮らしだった。あの日、大手町(現中区)の自宅から登校後、学校の地下で被爆した。爆心地からわずか460メートル。2年生だった弟は校庭で黒焦げになった。母は見つからなかった。

 焼け野原に独りで過ごした。数日後、知人で朝鮮半島出身の男性と再会。間もなく一緒に海を渡る。だが日本による統治から解放されたばかりの地で、男性の家族から受けた仕打ちはひどかった。逃げ出し、13歳で路上生活に。50年に朝鮮戦争が始まると、戦場となった市街地で何度も命の危険にさらされた。

 帰国したいが、日本語を忘れ、身分証もない。日本語の読み書きができる人の協力を得て、広島市に何度も手紙を書き送った。「矢賀町(現東区)ニ祖母西田トラサン居マス」。すがる思いで書いた。60年、願いがかなった。当時の中国新聞記事によると、市から連絡を受けた西田さん=当時(83)=は「星が天から降ってきたようだ」と喜んだ。

 24歳の時、15年ぶりに広島の土を踏んだ。それから1週間、西田さん宅に身を寄せた。生活費も助けてもらった。しかし言語の壁もあり、悲願だった古里での生活になじめなかった。居場所を求め、朝鮮半島出身者のつてで大阪へ。63年、西田さんは亡くなった。

 「この時、不思議な夢を見た」と友田さんは振り返る。「帰ってきて」と夢の中で祖母に告げられた。急いで広島に戻ると、すでに葬儀は終わっていた。間に合わなかった―。後悔を今も引きずっている。

 墓探しを始めたのは昨年秋だった。母校の袋町小から被爆体験の証言を依頼されたのをきっかけに、祖母への思いが再びあふれ出た。古里との縁を得たことが、友田さんの背中を押した。今年3月には、袋町小で特別に修了証書を受けた。当時の校長、福田忠且さん(56)との交流は続いている。「私にとっての校長先生は、福田先生です」

 8日で太平洋戦争の開戦から81年を数える今も、戦争と原爆に翻弄(ほんろう)されてきた人生を生き続ける友田さん。病気を抱えながらも、墓探しは体が動く限り諦めないという。見つけ出したら「おばあさん、長く帰って来られなくてごめんねと伝えたい」。

(2022年12月5日朝刊掲載)

年別アーカイブ