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社説・コラム

[A Book for Peace 森田裕美 この一冊] 「時間」 堀田善衛著(岩波現代文庫)

85年前の南京 人間を問う

 読みながら、あるいは読み終わった後に、しばらく放心状態になるような作品と出合うことがある。本書はその一つ。日中戦争さなかの南京大虐殺を扱った堀田善衛(1918~98年)の長編小説である。

 今から85年前の1937年12月、旧日本軍は中国・南京を占領した。多くの捕虜や一般市民を殺害。略奪や性暴力を加えた。本作は、その前後の37年11月から38年10月までの時間が、中国人知識層・陳英諦の日記の形態でつづられていく。

 陳は日本兵に身重の妻や子どもを殺され、いとこはレイプされて病に伏す。陳自身も奇跡的に虐殺を免れ、日本軍将校の召し使いとして働きながら諜報(ちょうほう)活動をしている―という設定だ。

 劇的な展開はない。スパイ小説でもなければ日本軍の残忍さをことさらに訴える内容でもない。史実に沿い、陳が何を見て何を考えたのか、思索の軌跡が、抑制された筆致で描かれる。

 恐ろしい現実を前に、陳は「死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない。一人一人が死んだのだ」と記す。歴史的悲惨を、被害者の数の多寡や政治の文脈で語ることを拒む。かけがえのない固有の命の問題として向き合い、歴史とは何か、そこに生きる人間はどうあるべきか追究していく。

 淡々とした陳の叙述は、「戦争とはそういうもの」「仕方なかった」と戦争や敵のせいにして目を背けることを許さない。日本兵や日和見的な同胞といった多様な登場人物から浮かび上がるのは、どうしようもない生身の人間の姿だ。私たちはいかに流されるのか、いかにやすやすと愚行に手を染めてしまうのか…。

 陳は「われわれのあらゆる行為がとりかえしのつかぬものであるからこそ、われわれは歴史をもちうるのであろう」とも考える。私たちは後戻りできない「時間」を生きつつ歴史に参画していると突き付ける。そのことに、どれだけ自覚的であるか問われている。

これも!

①石川達三著「生きている兵隊(伏字復元版)」(中公文庫)
②清水潔著「『南京事件』を調査せよ」(文春文庫)
③辺見庸著「増補版 1★9★3★7(イクミナ)」(河出書房新社)
④榛葉英治著「城壁」(文学通信)

(2022年12月5日朝刊掲載)

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