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暁部隊と私 <上> 朝鮮半島への決死行 幻に 元潜水輸送隊・岩下運雄さん(東京都調布市)

 「冬なのになぜ夏服が支給されるのか」。そういぶかった記憶が東京都調布市の元会社社長岩下運雄(かずお)さんにある。長野県生まれの101歳。東京大在学中の1943年12月、学徒出陣で宇品(広島市南区)へ陸軍船舶兵として召集された。船舶工兵第一野戦補充隊に配属されて年の瀬にはフィリピンにいた。

 陸軍工兵は明治初期の広島鎮台(後の第五師団)発祥で、その流れをくむのが船舶工兵。危険な上陸作戦が任務だ。当時、反攻に出た米軍はグアムなどの占領を経てフィリピンを目指していた。岩下さんはマニラからセブ島へ移動し、44年3月には宇品へ帰還の途に就いたが、残留した兵も多数いた。「多分生きてはいまい」と多くを語らない。

 帰還すると香川県豊浜町(現観音寺市)の船舶練習部幹部候補生隊へ。1年ほどの軍歴で見習士官に昇格する。44年12月には愛媛県三島町(現四国中央市)で前年発足した潜水輸送教育隊に転じた。輸送の「ゆ」、秘匿名○ゆ部隊である。

 陸軍で「潜水輸送」とは奇異に思える。それは輸送船団による補給を絶たれて南太平洋ガダルカナル島の攻防に敗れたため、陸軍が海軍には伏せて手を打とうとしたことに始まる。食料などを積む潜水艦は43年12月に1号艇が日立製作所笠戸工場(下松市)で完成。敗戦までに40隻が就役し、南方戦線にも出動した。

 「陸軍では誰も潜水艦のことを知らないのに『航海長をやれ』ですから」と岩下さん。あの日も松山市沖の興居島(ごごしま)へ訓練に出るため宇品で準備中、閃光(せんこう)と火球を目撃した。事情を知らされぬまま出航し、帰港した後は自ら進んで宇品と市街地を往復し、被災者の救援などに当たったという。

 岩下さんにはもう一つ、運命の岐路があった。機雷や敵潜水艦が潜む朝鮮海峡を渡れという命令が○ゆに下っていたからだ。「朝鮮半島から内地に食料を運べというんだ」。だが作戦は実行されることはなく、やがて玉音放送が流れる―。

 岩下さんは100歳を迎えた昨年、被爆者健康手帳を取得した。広島市が71年に刊行した「広島原爆戦災誌」に自身の手記が載っているにもかかわらず、名前が誤記されていて、いったん申請は却下。2度目は家族の助力もあって本人確認ができた。そのことも、一学徒には抗しきれぬ時代があった証しである。

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 宇品を本拠にした陸軍船舶司令部(通称暁部隊)。太平洋戦争では上陸部隊だけでなく水上特攻艇や潜水艦などの部隊も編成し、原爆投下後は広島の救援に出動した。8日は開戦から81年。2人の証言を2回にわたってつづる。(客員特別編集委員・佐田尾信作)

(2022年12月5日朝刊掲載)

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