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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <9> 「忘れ形見」 油彩画が伝える家族の悲嘆

 戦死した父の代わりに帰ってきた軍服に手を合わせる子。母は子の肩を抱いて泣いている。「忘れ形見」と題した油彩画から家族の悲しみが切ないほどに伝わってくる。

 広島県佐伯郡地御前村(現廿日市市)出身の洋画家小林千古(せんこ)が日露戦争時の明治38(1905)年に描いた。副題「恤兵揮毫(じっぺいきごう)」は戦地の兵をねぎらうため筆を執ったとの意味。家族を悲しませないよう無事生還の願いを込めたのだろうか。

 明治37(04)年2月の開戦から連戦連勝の日本軍も、旅順要塞(ようさい)の攻防などで多くの死傷者を出す。日露戦争全体の戦死者は8万7千人と日清戦争の6倍に上った。

 戦勝報道に国内は沸き立つ一方で、増税や戦時国債の負担、さらに物価高が暮らしを直撃した。一家の柱をなくして途方に暮れる家族も増え、厭戦(えんせん)気分が漂い始める。

 広島県沼隈郡千年(ちとせ)村(現福山市沼隈町)の山本滝之助が発行する月刊誌「吉備時報」の明治37年8月号は、戦勝を祝うちょうちん行列に疑問を呈した。「騒ぎ立てるだけでなく、出征の苦難や家族の痛慮に思いをいたさねば」と。

 その前月号のコラムでは、戦争での生死を軽く見るような軍国の為政者の姿勢に違和感を表す。そして「この国土、五千万の生命財産は誠に一つの賭けものたるの感がある。(略)夜もうかつには眠れぬ」と民草の真情を吐露した。

 戦死者遺族を描いた「忘れ形見」はこの時代に希有(けう)なテーマの作品である。小林は海外で絵画修業して明治36(03)年に帰郷した。広島市的場町に画室を持つが、戦死者遺族のことを実家で聞いた可能性がある。地御前村からは日露戦争に68人が従軍し、6人が戦死した。

 世界を見てきた小林は安易な西洋化に批判的だった。明治40(07)年の構想画「誘惑」では、日本を表す目隠し少女が西洋の物質文明を体現する悪魔に誘惑され、日本祖霊の天女に止められる様を描いた。

 帝国主義的な戦争による大量殺傷は西洋物質文明の暴走の結果と言えよう。銃後の人間的悲惨さにあえて目を凝らした「忘れ形見」から、画家の静かな非戦の意思を読み取ることができはしないか。(山城滋)

小林千古
 1870~1911年。18歳で米国カリフォルニア州に渡り、21歳で画学院に入り素描や油絵で受賞。ハワイに滞在後、パリで黒田清輝らと交わる。33歳で帰国後、35歳で上京し白馬会展などに出品。結核を患い故郷で死去。

(2022年12月3日朝刊掲載)

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