×

連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <11> 社会主義伝道行商 箱車引いて東京から山口へ

 日露戦争中も少数派だが社会主義者たちは非戦を唱え続けた。新聞各紙が主戦論に傾く明治36(1903)年11月、万朝報(よろずちょうほう)を辞めた幸徳秋水、堺利彦らが週刊平民新聞を創刊する。全国に5千部近くを届けた。

 開戦1カ月後の明治37(04)年3月、平民新聞はロシア社会民主党へのメッセージ「与(あたうる)露国社会党書」を掲載した。「共通の敵は愛国主義と軍国主義」とし、武力でなく言論による戦いへの一致団結を呼びかける。英訳が欧米の社会党機関紙に競うように転載された。

 この時代の熱を伝えるのは道行き連載「伝道行商の記」である。陸軍が旅順要塞(ようさい)を攻めあぐねる同年10月5日、山口県出身の20代2人が社会主義伝道行商に東京から旅立った。

 社会主義書籍を積んだ赤い箱車を徒歩で引き故郷を目指す。情熱家の山口孤剣は時に弱音を吐き、意志堅固な小田頼造が取りなした。東海、山陽の道すがら新聞購読者を頼って会合を開き、書籍を売って社会主義を広めた。途中から尾行が付く。

 2人は12月下旬に岡山県入り。小作人争議があった農村での社会主義談話会で「五、六十人が涙を流さんばかりに聞いてくれた」と記す。

 年末年始の8日間、岡山で新聞読者会を始めた森近運平宅に宿泊。山口作詞の「社会主義の歌」を3人で練習し、演説会で披露した。森近は県農政職員を免官になったばかり。戦時公債購入による戦争協力への反対意見を町村長会で述べていた。

 明治38(05)年1月8日から広島県内へ。本郷村(現三原市)では「村長が大変訳のわかった人」で小学校用に5冊、勧業組合用に3冊を買ってくれた。大都市広島では「さすが軍隊主義のさかんな所だけあって社会主義はなかなか取り合ってくれぬ。いたる所で面会を謝絶された」と1冊しか売れなかった。

 非戦主張からか「国賊新聞」と罵倒されたことも。一方で、同郷出身の尾行刑事は萩の乱から逃れ西南戦争で入獄した身の上を話して2冊を購入。柳井の小学校長は教員を集めて社会主義研究の必要性を説き、他校への紹介状も書いてくれた。

 1月26日に下関で行商終了。114日間で社会主義者を65人増やし、書籍千冊余を売った。(山城滋)

山口孤剣
 1883~1920年。本名は義三。下関の呉服商家生まれ、東京政治学校で学ぶ。著書「破帝国主義論」など▽小田頼造 1881~1918年。徳地島地(現山口市)出身。後に高野山で僧侶に。

(2022年12月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ