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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <12> 弾圧と過激化 大逆事件 左派を一網打尽に

 明治37(1904)年の日露開戦の当初、桂太郎内閣の言論取り締まりは比較的緩やかだった。憲法や国会、言論の自由もない専制国ロシアに対し、日本は文明国であると欧米諸国に示す狙いがあったようだ。

 戦況優勢で英米での戦費用外債の確保に見通しがつくと弾圧に転じる。同年11月、週刊平民新聞の「共産党宣言」掲載号が発禁に。筆禍が続いて明治38(05)年1月末、64号で廃刊に追い込まれた。印刷人の幸徳秋水は実刑5カ月に処された。

 終戦後の明治39(06)年1月に政友会の西園寺公望(きんもち)内閣が成立。穏健な社会主義政党の容認に転じ、社会主義者は2月に日本社会党を結成した。岡山を出た森近運平は上京し、平民新聞の後継紙で健筆を振るっていた。25歳で社会党評議員となる。

 東京市電値上げ反対の市民大会後の投石騒動で山口孤剣ら党員10人が検挙された。党内では米国から帰国した幸徳が無政府主義の影響で直接行動を唱え、片山潜たちの議会主義派(右派)と対立した。中間派の森近も人脈的には幸徳に近かった。

 大衆組織もないのにゼネストで無政府状態をつくり出す直接行動派(左派)の主張は空論でも、幸徳が説く「世界革命運動の潮流」は若者を魅了した。左派が党内の大勢を占め、政府は社会党の結党を禁止した。

 明治41(08)年6月、東京であった山口の出獄祝い会の流れで左派の若手が「無政府共産」と書いた赤旗を掲げて警官と衝突し、十数人が検挙された。この赤旗事件を受けて元老山県有朋は明治天皇に、社会党取り締まりが不完全と密奏する。

 社会主義者を追い詰め過ぎない方針に不満を抱く山県の倒閣運動だった。西園寺内閣は総辞職。第2次桂内閣は社会主義者への抑圧を強め、左派は過激な直接行動に走る。

 明治43(10)年5月、大逆事件が発覚した。長野の製材所勤めの宮下太吉が天皇も人間であることを証明しようと天皇暗殺を企て、爆弾製造実験をしたことが発端。企てに関与した4人にとどまらず、幸徳や森近を含む計26人が起訴された。直接行動派の一網打尽を狙う摘発だった。

 企てに消極的だった幸徳は無政府主義で他者を先導した首謀者とされた。宮下の誘いを断った森近は皇国史観の神話性を教えたことに目を付けられた。共に明治44(11)年1月、死刑が執行された。(山城滋)

大逆事件
 宮下と管野スガ、新村忠雄、古河力作が計画。幸徳、森近のほか和歌山、熊本、大阪などの社会主義者が起訴された。26人中24人に死刑判決、うち12人は特赦で無期懲役に減刑された。

(2022年12月8日朝刊掲載)

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