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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <13> 世に類なき裁判 予断に基づき森近ら極刑に

 「実に世に類なき裁判」。大逆事件に連座して死刑となった森近運平は明治44(1911)年1月に郷里、岡山県後月(しつき)郡高屋村(現井原市高屋町)の妻への手紙で書いた。

 自作地主の長男に生まれた森近は農学校を出て同県農政部門に勤めた。農事改良の志は地主と小作人の不平等な関係に阻まれ、「一大ヒューマニティーなる社会主義」を信奉する。それをやめるよう上司に説諭されたが拒否し、免官となった。

 岡山を出て明治38(05)年3月に大阪平民社を創設し、週刊平民新聞の後継紙「直言」に記事を書いた。日露戦争末期の同年7月、中規模以下の農家の田地が大地主に盛んに流れ込み、高利貸し抵当物件が増える農村の実情に触れ「見よ戦勝帝国の平民はこんなものだ」と記す。

 大阪、東京での社会主義者としての活動は厳しい弾圧にさらされ、明治42(09)年3月に帰郷。ガラス温室でブドウなどの果樹や野菜の栽培準備に専念する。森近は地主制度に代わる協同組合を構想し、先進農業の導入はその第一歩だった。

 帰郷の前、大逆事件を企てた宮下太吉の誘いを「妻子があるから」と断った。ところが明治43(10)年6月、共犯として勾引される。東京時代、政府の弾圧に憤慨して幸徳秋水らと交わした革命放談が革命暴動の共同謀議とみなされた。

 大審院は公判開始から40日足らずで被告26人中24人に死刑判決(12人は無期懲役に減刑)を下した。社会全体が大逆事件でパニックに陥る。第2次桂太郎内閣は判決7カ月後に特別高等警察を設け、社会主義者や無政府主義者への弾圧が強まる。

 担当弁護士の今村力三郎は後年、「一人の証人も許さず非公開で、事前に予断を抱き形式的に審理を終えた」と裁判を批判。多数の冤罪(えんざい)者が極刑に処せられたことを悔やんだ。

 典型的な犠牲者が森近だった。判決から50年の1961年に妹たちが再審請求したが、棄却された。

 90年に「森近運平を語る会」が発足。会報発行などで大逆事件の真相や森近の業績を語り継ぎ、コロナ禍で見送った墓前祭の来春再開を目指す。農地共有化という森近の理想は今、地域農業を守る集落法人の形で根付いている。(山城滋)

森近運平
 1881~1911年。岡山県職員だった明治37年「産業組合手引」出版。同38年大阪平民社を創設後に東京へ。同39年日本社会党結成に参画、同40年に再び大阪に戻り大阪平民新聞発刊、同41年再び上京。

(2022年12月9日朝刊掲載)

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