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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <14> 青年会 戦時に存在感 官製色批判も

 日露関係が険悪化する明治36(1903)年、広島県沼隈郡千年(ちとせ)村(現福山市沼隈町)の山本滝之助は青年会の設立を郡長に働きかけていた。時勢に取り残された田舎の若者を束ね、地域や国家での役割を果たさねばとの思いからである。

 同年10月、千年村青年連合会が同村在郷軍人会と併せて設立された。将来を暗示するような組み合わせだが、小学訓導の傍ら個人雑誌も出す山本は主戦論者ではなかった。翌明治37(04)年2月3日、「日露問題未決で開戦もこまる」と日記に書いた1週間後に宣戦布告となる。

 日露戦争はしかし、地域での青年会の存在を際立たせた。戦費捻出の要請に山本は同村青年連合会に国債100円の応募を提起する。郡内町村に次々できた青年会は軍人への慰問状発送や軍人留守宅の支援、凱旋(がいせん)軍人歓迎会の盛り上げも担った。

 明治38(05)年1月に山本は広島に赴き、県知事や師範学校長、新聞「中國」(中国新聞の前身)の主筆に持論を説いた。効果は「中國」紙面に表れる。師範学校長の談話記事に続き、評論記事「地方青年の自覚」と「若連中の啓発」が1面トップに掲載された。さらに全国の舞台に駆け上る好機が訪れる。

 同年4月、芳川顕正(よしかわあきまさ)内務大臣が地方視察で広島を訪問。山本は随行の井上友一(ともいち)書記官と面談し、後の大臣報告に広島県の青年夜学の実践が盛り込まれた。8月には全国連合教育会で広島県代表として地方青年団体と補習教育について演説した。

 地元でも各町村青年組織からなる沼隈郡青年会ができる。明治40(07)年5月に第1回の同郡青年大会が今津河原で盛大に催された。

 明治42(09)年の第3回大会を大阪朝日新聞の長谷川如是閑(にょぜかん)が取材した。長谷川は特集記事に「日清日露の戦争に勝ったのは君方のおかげ」と書く。里道改修や植林、老人慰労から寄付行為に及ぶ青年会活動を「結構ずくめ」と紹介した。

 一方で、郡長や村長が会頭や支部長になり、若連中がみんな加わるような活動では「行政事項と少しも変わりのないことになって、全く強制的の性質になってしまう」と批判した。こうした官製色は国の後押しでさらに強まっていく。(山城滋)

第1回沼隈郡青年大会
 青年会員約3千人と見物人数千人が集まった。軍人協力や学校敷地造成、共同農作業などに取り組んだ5村青年会を会頭の阿武(あんの)信一郡長が表彰。相撲など余興もあった。

(2022年12月10日朝刊掲載)

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