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段原が新たな顔に 40年間の広島市再開発、3月に終了

 ことし、「戦後」がようやく終わる街がある。広島市南区の段原地区。比治山の陰となり、原爆による焼失を免れた。残った古い街並みは被爆地の復興事業の対象から外れ、市の再開発が始まったのは1973年。住む人も、街の風景も変わっていった。40年にわたった事業は3月に終了する。(加納亜弥)

 JR広島駅(南区)の南約1キロ。74・5ヘクタールの再開発地域には今、約1万人が暮らす。ビルや住宅が整然と立ち並び、一部に更地が残るだけ。2006年に法的に事業終了した西部地区(48ヘクタール)に続き、市は東部地区(26・5ヘクタール)についても、3月に最終手続きとなる換地処分の公告をする。40年間で移転した建物は約4100棟に上り、「全国でも類を見ない規模」(国土交通省)だった。

 原爆被害を免れた段原には、家を失った人たちが大勢移り住んできた。南隣の旧陸軍施設跡地(現広島大霞キャンパス)には広島県庁が56年まで置かれ、市内きってのにぎわいを見せた。

 原爆の焼失区域でないため、インフラ整備が先送りされた。戦前からの住宅と戦後建てられたバラック住宅が密集、混在。その間を狭い道が縫い、下水道も通らなかった。不便な生活を嫌い、若い世代は次第に街を離れた。

 市が69年、再開発構想を発表すると住民の反対運動も起きた。事業の初期から再開発に関わった元市都市整備局長の加藤英海さん(77)=安佐南区=は「立ち退きの協力を求めるのは大変だった。しかし住民が誇りを持てる街を造ろうとの一心だった」と振り返る。

 再開発では、西部地区の一部住民と市が清算金をめぐって対立。東部地区の密集地では境界確定の作業も難航し、市の財政難も相まって事業期間は計画よりも13年延びた。

 街は今、人気の住宅街に生まれ変わった。09年3月には北東にマツダスタジアム(南区)が完成、広島駅南口でも再開発が進む。住民の一体感の醸成を含め、まちづくりは新たな局面を迎える。

 広島大大学院社会科学研究科の戸田常一教授(地域政策論)は「広島駅周辺の開発と連携し、段原地区だけではなく広く面的な整備を考えるべきだ。人の流れを呼び込めば、民間の投資意欲も刺激できる」と指摘している。

段原再開発事業
 広島市が1971年に都市計画決定した。国鉄宇品線(86年廃線)を境に地区を東西に分け、土地区画整理の手法で西部地区(48ヘクタール)は73年、東部地区(26・5ヘクタール)は95年に事業着手した。JR広島駅方面と結ぶメーン道路「中広宇品線」(幅36メートル)を設け、密集住宅を整理したり、下水道や公園を整えたりした。西部は2006年4月に法的に事業完了した。総事業費は1370億円。

(2014年1月4日朝刊掲載)

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