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連載・特集

暁部隊と私 <下> 焼かれた都市 幾つも見た 元船舶工兵隊・大成玉光さん(東広島市)

 「慰霊碑はどこかな」。東広島市高屋町造賀の農業大成玉光さん(97)はつぶやいた。10月でも日差しが強い広島湾の金輪島(広島市南区)。港から車いすでトンネルを抜け、野にたたずむ原爆犠牲者の碑に瞑目(めいもく)した。あの日、陸軍船舶司令部(通称暁部隊)の一兵卒として島にいたが、再訪したのは戦後初めてだった。

 豊島(現呉市)のミカン農家に生まれた大成さんは10代で呉海軍工廠(こうしょう)に物資を運ぶ船に乗り組む。その後、広島県忠海町(現竹原市)の「健民修錬所」に2か月間放り込まれた。

 「そこでは死ぬことばかり教えよるんですわ」。在郷軍人が軍国美談「肉弾三勇士」などで戦意をあおった。大成さんは兵役検査に合格し、1945年3月、暁部隊の潜水輸送教育隊(愛媛県三島町=現四国中央市)に配属された。早速遺書を書かされ「沖縄行きか」と戦々恐々とした。米軍による沖縄への空襲や艦砲射撃が激しさを増す頃だった。

 ところが1カ月余りで特設船舶工兵45連隊に編入され、軍用列車で富山県高岡市の伏木港へ。「かますに土を入れて高射砲陣地を築いたんですよ」。夜は学校に寝泊まりしたという。

 沖縄の次の標的は本土だと大本営は焦りの色を濃くする。陸軍は重要港湾に対する敵機の機雷投下を封じ込め、荷役を援護するよう命じられた。伏木には高射砲12門と照空灯6基を置いた記録が残る。5月に入ると伏木港と隣の新湊港(現射水市)への機雷投下や空襲が相次いだ。築いた陣地がどれほど役立ったか、大成さんには分からない。

 6月には部隊は徳島県の撫養(むや)港(現鳴門市)へ移動し、同じ任務に就く。そして金輪島の野戦船舶本廠へ任務で出向いていて、あの日を迎えた。

 防空壕(ごう)にいても気付いた音や閃光(せんこう)。寝泊まりしていた対岸宇品の広陵中(現広陵高)に戻る途中、御幸橋付近でガスマスクを拾う。91年に東広島市原爆被爆資料展示室に寄贈し、今も公開されている。

 大成さんは被爆者健康手帳を持たず、行政に相談もしていない。部隊の移動途中に、空襲を受けた大阪や神戸など幾つもの都市の焼け野原を目の当たりにした。金輪島では、被爆後に運ばれてきた多くの負傷者が息絶えている。「けがもないわしが恩恵を受けるのは筋が違うから」

 戦後は開拓農民として今の土地に移り住み、酪農で一家をなした。手帳があれば、激動の半生の証しの一つとなるはずである。 (客員特別編集委員・佐田尾信作)

(2022年12月13日朝刊掲載)

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