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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <15> 地方改良運動 勤倹を奨励 青年会に追い風

 明治41(1908)年10月15日、中国新聞は1面トップに明治天皇が発布した詔書を掲げた。「上下心を一にして勤倹に励め」との内容である。この日の紙面には、芦品郡戸手村(現福山市)の神社祭礼での刃傷沙汰の裁判記事、英米製自転車の直輸入販売の広告もみえる。

 犠牲と緊張を国民に強いた日露戦争の反動で、世上に拝金の風潮や個人主義が広がった。第2次桂太郎内閣による人心引き締めの詔は「戊申(ぼしん)詔書」と呼ばれる。地方官会議で平田東助内務大臣は、社会主義など危激な論説の鼓吹や卑猥(ひわい)な冊子頒布の取り締まり強化を求めた。

 こうした世相の下、若手の内務官僚たちは戦争に熱烈協力した地方、とりわけ青年たちに目を向けた。内務省は明治42(09)年、各府県の郡長級を集めて地方改良運動に乗り出す。地方財産の町村への統一や農事改良、勤倹貯蓄を奨励した。近代化に立ち遅れていた地方は未開拓の政治的資源だった。

 若手官僚リーダー格の井上友一(ともいち)は二宮尊徳の思想を広める報徳会の創設に関わり、勤倹節約の教えを地方改良運動に注入した。青年会の先導者として知られる広島県沼隈郡の山本滝之助とは旧知の仲。青年会での夜学会や農事振興を呼びかける山本も報徳会の講演会に出向いた。

 山本が目指す青年会の全国組織化にも追い風が吹く。明治43(10)年4月、名古屋で初の全国青年大会が開かれた。沼隈郡青年会は阿武(あんの)信一郡長以下412人が貸し切り列車で松永駅を出発。大会で山本は青年団功労者として感謝の辞を受けた。

 大会で協議された青年団規則は内務省作成と伝わる。筆頭は「教育勅語ならびに戊申詔書の御趣旨を奉体」。以下「一家の和合を図り身を修め」「業を励み産を治め国力の増進を」「質素にして分度を守り」など報徳会の影響がうかがえる。

 国民新聞社長の徳富蘇峰(そほう)は同紙に「地方の秩序をかく乱するものはみな落第の秀才」と記す。彼らが郷党の青年を誘惑する際、「気力なき者は放蕩(ほうとう)児に、気力ある者はあるいは社会主義者になる」とし、それを防ぐ青年会の役割を高く評価した。

 通俗的な表現だが、時代の空気が伝わってくる。(山城滋)

報徳会
 明治38年に半官半民で創設し、機関誌「斯民(しみん)」発行。二宮尊徳(1787~1856年)が唱えた「至誠」「勤労」「分度」(分をわきまえた消費)「推譲」(余りを他に譲る)などの普及活動を展開した。

(2022年12月13日朝刊掲載)

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