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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <16> 韓国併合 大陸への膨張志向拡大続く

 日露戦争の講和から2カ月後の明治38(1905)年11月、伊藤博文は韓国に渡っていた。特派大使として皇帝の高宗(コジョン)に謁見(えっけん)して第2次日韓協約を結ぶ。

 外交権を奪う内容だった。韓国を実質的な保護国とすることを列強に認めさせた上での協約強要である。ソウルに統監府を置き、伊藤は12月に初代韓国統監に就く。

 かつて征韓論に反対した大久保利通の予言通り、韓国内で反日義兵闘争が激化した。明治40(07)年5月、伊藤は親日の李完用(イ・ワンヨン)内閣を成立させる。ところが高宗は6月、オランダ・ハーグの万国平和会議に密使を送り、韓国の独立擁護を訴えた。

 この事件で7月、高宗は子どもの純宗(スンジョン)への譲位を余儀なくされた。さらに韓国の内政を日本が掌握する第3次日韓協約を結び、韓国軍を解散させた。完全な保護国化だった。

 この頃、元老山県有朋や桂太郎は韓国併合を考え始めた。伊藤は日本の指導で自治の仕組みを育てて韓国の近代化を進めようとする。「自治育成路線」はしかし、韓国人の協力を得られず義兵闘争は先鋭化した。

 伊藤の提案で明治42(09)年1月、皇帝純宗の国内巡幸が始まる。若き日の明治天皇に倣った統治への支持獲得が狙いだが、爆弾騒ぎや統監暗殺計画も明るみに出た。

 同年4月に伊藤は桂首相らの併合不可避論に同意し、6月に統監を辞任する。10月、伊藤は旧満州(中国東北部)ハルビン駅で韓国独立運動家の安重根(アン・ジュングン)に暗殺された。

 韓国併合条約は明治43(10)年8月に調印され、朝鮮総督府の初代総督に陸軍大将寺内正毅(まさたけ)が任命された。植民地支配の始まりだった。

 わが国に脅威をもたらす他国による朝鮮半島支配の恐れは消えた。一方で地続きとなる大陸への膨張志向は際限なく広がった。ロシアから得た旅順・大連の租借権と旧満州南部の東清鉄道が導火線の役割を果たす。

 朝鮮半島の領土化は「ロシア、清と国境を接することになり不慮の災いを来す」と大久保は警告した。併合をためらった伊藤も同じ懸念を抱いたのかもしれないが、隣国を保護国化した時点で既に引き返せないほど深入りしていた。(山城滋) =見果てぬ民主Ⅴおわり

朝鮮総督府
 総務、内務、農商工、司法部などを設置。武官の朝鮮総督が立法、司法、行政、軍事権を握る武断統治を実施。1919年の三・一独立運動で文化統治に転じ、戦時体制下では皇民化政策を推進した。

(2022年12月14日朝刊掲載)

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