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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 客員特別編集委員 佐田尾信作 「原理」に迫った先駆者

戦争体験 現実に重ね合わせ

 世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を巡る問題は古くて新しい。ジャーナリストの茶本繁正が1977年に世に問うた「原理運動の研究」(晩聲社)が書籍による告発の先駆けではなかろうか。その人の名は忘れられた感もあるが、原理運動とは当時の統一教会の代名詞であり、数年で資料編を含め4冊のシリーズを書き上げた。いずれも今では入手困難で、筆者も図書館で借りて通読したところ、霊感商法だけでなく日韓両国での政界工作まで、今日に至る諸問題を全て明るみにしている。その先見の明には驚くほかない。

 茶本は29年大分県に生まれ、2006年に76歳で亡くなった。少年時代に海軍甲種飛行予科練習生(予科練)に志願。だが、乗り組む機体はもはやなく、特殊潜航艇「蛟龍(こうりゅう)」の搭乗員つまり海の特攻隊員として倉橋島(現呉市)で敗戦を迎えたという。戦後は早稲田大を卒業し、出版社勤務などを経て60年からフリーの物書きに。原理運動を筆鋒(ひっぽう)鋭く追及しただけでなく、早大総長を務めた村井資長らとともに「原理運動を憂慮する会」発足を呼びかけた。

 「原理運動の研究」によると、この問題に雑誌記者の茶本が関心を抱くのは「人参茶」の不自然な輸入急増を知った74年だ。翌年「合同結婚」を巡って信者の父母たちが声を上げ、取材を進めるほどに疑惑は膨らむ。77年には被害者父母の会の人たちを集めた座談会を開き、やりとりを著書に50ページにわたって収録。「子どもが帰ってこない」「帰らせても教会に戻せと家で断食する」といった悲痛な叫びに満ちている。にもかかわらず、原理運動が浸透しつつあった日本の大学では大半の学生が無関心だと嘆いてもいた。

 茶本の仕事のバックボーンには何があったのだろうか。著書「獄中紙『すがも新聞』」(晩聲社)のあとがきによると、かつての自分は死を恐れなかった、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」は旧日本軍だけの「道義」だとは知る由もなかった―と振り返っている。何ら疑うことなく原理運動にのめり込む信者の若者たちが、判断力もないままに戦争に加担した昔の自分と重なったのである。

 「すがも新聞」は占領下の東京・巣鴨拘置所に収監されていたBC級戦犯たちが内部で編集、発行していた。朝鮮戦争が勃発すると、日本人の心の奥底には「好戦癖」の残滓(ざんし)があると批判し「ノーモア・スガモ」を呼びかける反戦の論調を打ち出している。茶本は編集部員だった人物からバックナンバーを託され、解説を付けて全貌を明らかにした。

 この出版に協力した元日本平和学会会長の内海愛子は「テーマは違うけれど全ての仕事に茶本さんの戦争体験が反映されていたのでしょう」と思い返す。「憂慮する会」の活動も共にした。「長い時間をかけて取材し分析する人でしたから、皆から全幅の信頼を置かれていました」

 この秋、筆者は東京都東村山市の茶本宅を訪ね、妻裕里(旧姓三重野)に話を聞く機会を得た。夫の書斎には今も自著を含む蔵書や取材資料が納まり、予科練時代の写真が飾られていた。

 裕里にも試練の時代がある。あの日、広島第一県女(現皆実高)の生徒だった彼女は原爆から難を逃れたが、広島一中(現国泰寺高)の弟杜夫を失う。戦後はダム湖に沈もうとする樽床(現広島県北広島町)で小学校教師を務め、やがて上京して勤めた出版社で茶本と労働争議の同志に。そして人生の同志となって彼の仕事の理解者となるのである。

 93歳の裕里はしゃきっとした物言いで「統一教会が押しかけてくるんじゃないかと、隣のおうちに逃げ込めるよう頼んだんだけど何もなかったの」。一方で「この問題はぎりぎりまで追い込んでいたのに解決できなかったのよ」とも漏らす。旧統一教会を巡る被害者救済法は成立したものの、これで万全だと考える当事者や識者はいそうにない。あらためて戦後政治が問われているように思えてならない。(文中敬称略)

(2022年12月15日朝刊掲載)

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