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峠三吉の未発表復興草案見つかる 「二十年後のヒロシマ」 平和広場や巨大記念碑 「理想を実現」

 「原爆詩集」で知られる峠三吉(1917~53年)が被爆の翌年に書いた広島復興案の草稿や、詩作など未発表の資料約20点が見つかった。峠のおいの三戸頼雄さん(昨年81歳で死去)から資料を託された広島文学資料保全の会が確認した。草稿は、中国新聞社が1946年に募った復興案で1等入選した論文「一九六五年のヒロシマ」の下書きとみられる。会は広島市の原爆資料館に今回の資料を寄せる考えである。(編集委員・西本雅実)

 小型ノートに書いた草稿は「二十年後のヒロシマ」と題し、1965年の広島を案内する形式でつづる。

 「原子爆弾の中心地跡」には「平和広場」が設けられ、「鉄と花崗(かこう)岩であの悲劇を象徴した巨大な記念碑」が立ち、基部の供養室では「戦争そのものへの罪悪性を」想起させる各種資料を展示。広場を囲む公園には、図書館や博物館、音楽堂、絵画館をはじめ外国人も集う市民会館がある。

 広島デルタは地下鉄で結ばれ、生活と勤労、慰安、保健などの施設が各区域に配置された都市は「ヒロシマに於(お)いて理想的に実現されてゐるのだ」とうたう。

 論文でも「理想都市ヒロシマ」を展開し、応募171編の1等として中国新聞46年8月2~4日付で掲載された。しかし、峠の仲間が70年代から「長兄によるもの」と著述するようになり、市の「広島被爆40年史」も市民による復興案として峠論文を挙げながら長兄執筆説にも触れ、疑義が続いていた。

 今回、ノートのほかザラ紙に記した「二十年後のユートピア広島市」も確認され、疑義を正す貴重な資料として注目される。

 また、ABCC(現放射線影響研究所)をテーマにした「ある心象風景」、入院先の国立広島療養所(現東広島医療センター)から妻和子さん(65年死去)に宛てた「一九五〇年のクリスマスに」の詩作や俳句、自作の楽譜もあり、峠の多面的な世界を伝えている。

1等入選論文 執筆を裏付け

広島文学資料保全の会の池田正彦事務局長(67)の話

 「一九六五年のヒロシマ」は、峠の関連著作がある人たちが長兄の作と主張して流布してきたが、直筆草稿と照らせば本人の作とみるのが妥当だ。戦前から労働運動に携わった長兄のアドバイスはあっただろうが、論旨の骨格は変わっていない。当時29歳の青年が願った理想都市や平和は実現されたのか。あらためて考えるうえでも峠の作品を読んでほしい。

(2014年1月6日朝刊掲載)

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