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近現代の呉 美術でたどる 市立美術館で特別展 戦前の活気から戦後の多様さ

 広島県呉は戦前、旧市街だけで人口40万に達する大都市だった。同時期の広島市をしのぐほどの住民がひしめいた街の活気は、文化活動の隆盛にも表れた。呉市立美術館(呉市幸町)で開催中の「呉の美術」では、戦禍を生き延びた絵画などの美術作品から、その息吹に時を超えて触れられる。(道面雅量)

 同美術館の開館40周年、呉市制120周年を記念した特別展。「激動の時代を越えて」の副題が示す通り、明治から平成まで、戦時を挟む呉の歩みを美術を通じてたどる。

 約160点に及ぶ出展作のうち、地元出身の南薫造の油絵「坐(ざ)せる女」(1908年)や「六月の日」(12年)、ヤギの親子を造形した上田直次の木彫「愛に生きる」(31年)は、中央で活躍した大家の傑作。格別の見応えだ。ただ、ここでは知名度といった物差しを離れ、呉という地域と切り離せない魅力をたたえた作品を紹介したい。

 例えば、長田国夫「黒衣の自画像」(40年ごろ)。長田は、小学6年時の担任で水彩の名手、長田健雄との出会いから絵を描くようになり、戦前の呉の繁栄を支えた海軍工廠(こうしょう)に14歳から勤める傍ら、画業に打ち込んだ。やがて教員を志し、試験勉強に励むが、疲労が重なり、職場の旋盤で指先を失ったという。

 表情に意志の強さ、絵肌に画才と修練がうかがえる自画像の指は、白い包帯に巻かれている。その痛ましさごと、個人を超えた近代呉の自画像に思えてくる。

 長田健雄も教師になる前は呉海軍工廠に勤め、呉洋画壇の重鎮、朝井清も在職した。戦前の文化運動に工廠の人脈が持った意味は大きい。戦前期の展示では、平川清蔵の版画ににじむプロレタリア美術の趣や、日本画の船田玉樹、片岡京二が見せる孤高の境地、谷口仙花の色彩美も見どころだ。

 旧呉市内の人口がピークの40万台となるのは43年ごろで、相次ぐ空襲を経た45年秋には約15万に激減する。その焦土から人々が立ち上がる過程でも、文化の力が果たしたものが確かにあった。

 朝井清の版画「焼跡に稔(みの)る」は、南薫造も参加した芸南文化同人会の機関誌「芸南文化」創刊号(46年)を飾った一枚。空襲被害者のための応急住宅、通称「三角兵舎」を背に、草花が力強く芽吹いている。

 以降、戦後期の展示は要約するのが難しいほど多様を極めるが、戦前の長田健雄らの熱意を受け継いでか、水彩の盛んなさまは特筆に値する。50年に水彩連盟呉支部を結成した藤川九郎の「戦艦大和進水式図」(69年)は軽妙な魅力。呉市役所に勤めた小野川幹雄が描いた港の夜景なども味わい深い。今春、急逝した福原匠一の日本画「駅裏」(2001年)は豊かな情感をたたえ、地域に生きた画家の面影をしのばせる。

 会場には、戦中のいわゆる戦争画を集めた一室もある。個々の表現とともに、作家の生きた「時代」を伝える美術の価値を再認識させてくれる。中国新聞社などの主催で1月29日まで。火曜と年末年始(12月29日~1月3日)休館。

(2022年12月16日朝刊掲載)

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