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[被爆建物を歩く] 歴清社の倉庫(広島市西区) 再出発の象徴 煙突・作業場も

 自社製品の金箔(きんぱく)の壁紙が、国内外の高級ホテルや美術館の内装にも使われている歴清社(広島市西区三篠町)。その華やかな印象とは対照的に、原爆被害を乗り越えてきた歴史を持つ。倉庫が市の被爆建物リストに登録されている。

 鉄筋コンクリート製で、化学薬品の保管庫だった。今も物置として使われている「現役」だ。

 「でも、倉庫よりも見てもらいたいものがあるんです」。6代目社長の久永朋幸さん(41)は、次に体育館のような雰囲気のある作業場へ案内してくれた。天井を突き破るように、コンクリート製の円柱が屋内にそびえ立つ。高さ約30メートル。「原爆を耐えた煙突です」

 歴清社は1905年に現在地で創業した。煙突は壁紙の乾燥作業に使われており、地域でも目立っていた。77年前の8月6日、5階建ての本社は爆心地から約2・2キロで全焼。従業員約20人が負傷し創業者の妻ら2人が犠牲になった。倉庫と煙突が残った。

 特に煙突は、「あの日」の記憶と焼け野原からの再出発の象徴でもあった。

 数年前に工場見学に訪れた1人の女性が、煙突に抱きつき、久永さんの前で涙を流したそうだ。この近くにあった自宅で被爆し、意識を取り戻した時、目に入ってきたのが焼け跡の煙突だったという。

 戦後、この周辺に集うように住民がバラックを建てた。歴清社は、被爆時に負傷した創業者の息子たちが再建。59年には爆心地から約5・1キロ離れた小学校の体育館や階段部分を譲り受け、煙突と倉庫を囲むように移築した。倉庫以外は「爆心地から5キロ以内に現存する建物」という市の基準を満たさないが、久永さんは「私たちにとって、ここ全体が被爆建物」と話す。

 煙突や作業場は劣化が進み、雨漏りが深刻だ。7年前に耐震工事を試みたが、移築や増築を経ただけに構造が複雑で、かなわなかった。市の修繕費用助成の対象は倉庫だけ。「このまま使い続けることはできない」と久永さんは頭を抱えながら、伝え残す道を模索している。(湯浅梨奈)

(2022年12月19日朝刊掲載)

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