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連載・特集

「放影研60年」 第4部 海の向こうで <1> 前向きに

米恨まず治療の道一筋

 米国が被爆地に設けた前身の原爆傷害調査委員会(ABCC)を含め、設立六十年を迎えた放射線影響研究所(放影研、広島市南区)の歴史に、多くの人たちの営みが息づく。海の向こう、原爆投下国に暮らすゆかりの人たちを訪ねた。その回想といまの思いを通し、放影研の「還暦」までの歩みを振り返る。これからを見つめる。(森田裕美)

 テキサス州ヒューストンのだだっ広い平野に、医療施設が密集するエリアがある。テキサス医療センター。最先端の医療を求め、世界中から患者が集まる。放影研にゆかりのある科学者も多い。

 がん治療で有名なテキサス大MDアンダーソンがんセンターに、広島市出身のリツコ・コマキ教授(64)を訪ねた。

 ABCC勤務を経て渡米した。いま、放射線腫瘍(しゅよう)学を究め、学会や講義のため国内外を飛び回る。センター内の小部屋に、原爆ドームや原爆の子の像など古里の写真が所狭しと並んでいた。「たまたま原爆に遭わなかった。人の役に立てる私は幸せ」。遠くを見つめ記憶をたどる。

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 一九四五年八月六日、一家五人で兵庫県尼崎市にいた。父は翌日、親類を捜して広島の爆心地に向かった。市内にいた祖母は一命を取り留めたが急性症状が続いた。二年後、家を失った親類を助けるため、家族で両親の古里の広島に戻った。

 幟町小で、被爆十年後に亡くなった佐々木禎子さんと同級になった。走るのが速かった禎子さんと運動会のリレーでよく一緒に走った。高学年になり、走れなくなった禎子さんは貧血と聞いた。が、白血病だった。

 禎子さんも在籍した幟町中で、生徒会長を務め、級友の死を機に始まった「原爆の子の像」を建立する活動に励んだ。日本中の学校長に協力を求めて手紙も書いた。

 白血病の研究者か医師になり、人の命を救いたい。広島大医学部に入学し、夏休みにABCCで被爆者検査を手伝い、卒業後もABCCに勤めた。「自分に何ができるかを考える方が先」と、不思議と米国を恨む気持ちはなかったという。

 一年勤務した後、ABCCの紹介で研修医として渡米した。放射線専門医のもとで学び、多くのことが分かった。あの日の広島で起きたこと、祖母に表れた急性症状のメカニズム、そして、がんも早期発見すれば放射線を使って治癒の道が開ける―。「放射線は広島で多くの人を殺した。でも、きちんと知識を積み正しく使えば、逆に人を救うことができる」

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 八〇年、米国人医師ジェームス・コックスさん(67)と結婚した。広島の父親は強硬に「原爆を落とした国の人間だ」と反対した。だが実家に連れて帰ると、「彼は原爆を落とすような人間ではない」と認めてくれた。ベトナム戦争の傷病兵を治療した夫は、反戦への思いが強い人だった。

 その夫は今くしくも放影研の理事を務め、コマキさんはかつて勤めた職場が直面する財政難の問題も耳にする。そのたびに、人類の未来に役立つ研究を続けるためにも、例えば他機関と連携して助成金をもらえないか、寄付で支える方法はないかなど、自分なりにアイデアを巡らせる。

 最近は仕事の合間を縫い、がん予防の「禁煙教育」をするため、現地の学校に出向く。子どもに折り鶴の作り方を教える。禎子さんの話をし、放射線を兵器に用いる人類の愚かさを説く。

 「現実を悲観するばかりではなく、どうやったら今より状況が良くなるか、いつも考えるの」。コマキさんの言葉は、放影研の未来へ寄せるメッセージのようにも響く。

(2007年6月30日朝刊掲載)

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