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連載・特集

「放影研60年」 第4部 海の向こうで <2> 歴史をつむぐ

交流の記録 真実に迫る

 米テキサス大の人類遺伝学センター名誉教授ウィリアム・シャル博士(85)=テキサス州=は二十年以上にわたり、放射線影響研究所(広島市南区、放影研)や前身の原爆傷害調査委員会(ABCC)にかかわった元同僚たちの個人資料を集め続けている。

 「戦争した日本人と米国人が手探りで交流し、友好関係を築いていった。その貴重な体験を残さなくてはならない」。感慨深そうに振り返る。

 シャル博士は一九四九年からABCCに在籍。以来、何度も日米を往復し、放影研でも副理事長兼研究担当理事を務め、放射線の遺伝的影響調査などにかかわってきた。

 集めた資料は、テキサス医療センター図書館分館に「ABCCコレクション」として保管されている。日記や書簡、報告書、研究論文など十八人分、量にして約三百六十立方メートル。初期の調査研究の軌跡のほか、関係者の人となりもうかがえる。

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 シャル博士が収集を始めたのは八二年。元同僚の日系人小児科医が亡くなり、遺族からABCC時代の書簡などが図書館に寄贈されたのがきっかけだった。

 当時、ABCC関連の公文書や議事録などを体系的に集めているのは、米政府に委嘱されてABCCを開設した米学士院(ワシントン)だけ。米国側の研究者の多くは個人的な研究報告書などを持ち帰り、やがて散逸する可能性が強かった。

 シャル博士はABCCや放影研関係者に手紙を書いた。個人所有の資料を寄せてほしいと呼び掛けた。すでにどこかに寄贈された資料については所在確認をした。

 「資料には人と人の交流の記録や思い出が詰まっているんだ」。シャル博士は、多くの人がつむいできた歴史に思いをはせる。

 自身は被爆地で、「強引に調査しても治療はしない」など被爆者からの反発は感じなかったという。だが、こんなことがあった。広島市内で物ごいをする傷病兵がいた。そばを通ると、ぱっとコップを手でふさいだ。「米国人には施しを受けたくないのだな」。人間として、その心情は痛いほどわかった。

 呉市内にあった宿舎から広島市内のABCCに通勤する途上、原爆で破壊され、復興に向かう広島を見詰めてきた。焼け跡だったあちこちに、質素で急ごしらえの家屋が立っている。何かできないかと考えても、何もできない自分がもどかしかったとも語る。

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 「科学者の私が、例えば日本人との交流や文化から多くを学んだ。ABCCの実像は、研究論文や公文書がすべてではない」

 そんなシャル博士の思いを受け止め、図書館では司書エリザベス・ホワイトさん(62)たちが資料の整理にあたる。「広島に行ったことはないけれど、資料のおかげで多くの視点からABCCを立体的に見ることができる。広島で何が起きたのか、過去の真実を残すためにも重要ね」。ホワイトさんは文書の箱を抱える手に、力をこめた。(森田裕美)

(2007年7月1日朝刊掲載)

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