×

連載・特集

「放影研60年」 第4部 海の向こうで <3> 学士院の立場

誤解解消へ「なお研究を」

 首都ワシントンにある米学士院のビル六階に、大きな額を入り口に掲げた一室がある。「ATOMIC BOMB CASUALTY COMMISSION 原爆傷害調査委員会」。ややくすんだ金色の日英表記が、大統領の指令で六十年前、被爆地にABCCを開設した学士院の足跡をしのばせる。

 ABCCが一九七五年、日米共同運営の放射線影響研究所(放影研)に改組された際、広島市南区にある施設正面玄関のガラス戸から切り抜き、持ち帰られたとされる。

    ■□■

 学術会議地球生命研究部門原子力放射線研究委員会上級顧問のイヴァン・デュプルさん(63)が部屋に招き入れてくれた。放影研に派遣する優秀な研究者の確保が主な任務だ。

 学士院はリンカーン大統領時代の一八六三年、政府の学術分野への助言機関として誕生した。そんな成り立ちを説明するデュプルさんの柔和な表情が、被爆者の減少や放影研の財政難、研究後継者不足などの現状に及ぶと少し険しくなった。

 「六十年も研究すればたいていのことは分かっただろう。そう言って予算を認めたがらない(連邦議会)議員もいる。でも今こそ大切な時期だ」。かつて、被爆五―十年後にピークを迎えた白血病の発生が減少してきたころ、米国内でABCCの廃止論が浮上した。「もし廃止していたら、その後の被爆者にがんが増えることは突き止められなかったではないか。同様に、今後増える病気もあるかもしれない。調査を続ける必要がある」とデュプルさん。

 とはいえ、放影研の財政難は厚い壁だ。米エネルギー省の予算削減により、九七年以降は日米折半運営の原則は事実上崩れ、被爆者を対象にした寿命調査や健康調査の予算は日本側が上乗せ負担して続けている。

 デュプルさんは米国側の立場をこう説明する。「(米国はABCCの)建物をつくり、三十年間単独で運営してきた。私たちができる精いっぱいの努力。被爆者の福祉に関する分を日本が払うのはフェア(公平)なことだ」

 しかし、「ABCCは被爆者を治療せず実験台にした」など被爆地の不信感は消えていない。米側の予算削減も「核開発に必要なデータがすでに手に入り、米国にとって放影研の重要性は低下したのだろう」との見方もある。

    ■□■

 デュプルさんは慌てて「被爆者を治療しなかったのは、地元の医師に診てもらいたいだろうとの配慮から。日本の医療発展を妨げないための合意だ」と弁明した。学士院は独立機関であり、米政府の言うなりではないことも訴えた。

 さらに「人類は過ちを繰り返してはならない。もっとヒロシマ、ナガサキから学ばなくてはならない。そのためにも放影研の歴史を見つめ、両国市民に説明を尽くし、互いの誤解を解き、分かり合う努力をしたい。それが私の仕事だ」。何度も繰り返した。

 デュプルさんは今年六月下旬に来日した。広島、長崎で暮らす日米関係者から思い出や助言を聞き、ビデオに収めた。放影研の将来像を探るための映像は十二月、ワシントンで開く六十周年記念シンポジウムで公開する予定だ。(森田裕美)

(2007年7月2日朝刊掲載)

年別アーカイブ