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連載・特集

「放影研60年」 第4部 海の向こうで <7> 父の思い

罪を感じ被爆地に滞在

 マンハッタンから北に約二百キロ、米ニューヨーク州の州都オールバニの森に囲まれた住まいで、環境生物学者ロバート・ヘンショーさん(73)はロッキングチェアを揺らした。在りし日の父について語り始める。

 「原爆を人の上に落とすべきではないと訴えていたんです」

 その父とはポール・ヘンショー氏。一九四二年に始まった原爆製造のマンハッタン計画に参加した生物物理学者だ。九二年、九十歳で死去した。

 「当初は、ほかの科学者たちと同じように、父は原爆製造は必要と考えていたらしい。だが開発が進むにつれ、恐ろしい破壊と核開発競争をもたらすことへの不安が膨らんでいったようだ」

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 子どもだったロバートさんは、父がしばしば自宅に科学者仲間を呼んでいたのを覚えている。その会合の「重み」がわかったのは後のこと。父から直接、聞かされた。

 科学者たちは話し合いの結果、「原爆を人が暮らす都市に落とさないように」と伝える使者をホワイトハウスに送ったという。だが、その伝言は大統領まで届いてなかったと、ポール氏は後で知った。

 四五年八月六日、マンハッタン計画で開発、製造された原爆は、広島の上空で炸裂(さくれつ)した。

 翌四六年暮れ、ポール氏は米国の調査団メンバーとして被爆地広島を視察した。団の現地機関の位置付けで四七年に誕生したのが原爆傷害調査委員会(ABCC)であり、放射線影響研究所(放影研、広島市南区)として現在に至る。ロバートさんは、被爆地に降り立った当時の父の心境をこう推測する。

 「被爆地へ赴く決断をしたのは、科学者としての関心に加え、大統領の決断を変えられなかった罪の意識を感じていたからではなかったろうか」

 ポール氏は、その後も三年間ほど広島と東京に滞在した。被爆者調査の様子や戦後日本の風景を多くの写真に残した。ロバートさんによると、父はしばらく日本に滞在できるよう、自ら連合軍に申し入れたという。日本人に尊敬と愛情を持つようになった。

 「日本で暮らし、父は根本的に変わった」

 帰国後、ポール氏は米原子力委員会に職を得ながらも、研究資金はほかの研究者に回し、自分は世界の人口増加問題などの研究に転向した。反戦活動家になり、年を取るにつれ、平和への思いをいっそう強めた。

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 父と子は、被爆五十年の九五年に広島市の平和記念式典に一緒に参列しようと約束した。だが果たせぬまま父は逝き、ロバートさんは二〇〇五年、代わりに折り鶴をささげるため広島を訪れた。父が撮影した復興期の被爆地の写真約二百三十枚を放影研に贈った。

 「父の話を聞いて育った私は、ある種の共犯関係を覚える。ヒロシマ、ナガサキへの責任も感じる」。父の写真に語りかけるように、ロバートさんがつぶやく。「精神的な意味で、父も私も、ヒバクシャです」

 ポール氏は死去の二年前、「ホロコースト(大量殺りく)」と題した講演用スライドを作った。その最後を、広島市の原爆慰霊碑に刻まれた言葉を引用し締めくくった。

 「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(森田裕美)=第4部おわり

(2007年7月6日朝刊掲載)

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