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連載・特集

[2023広島サミット] 広島サミットイヤー幕開け 被爆地の家族 あの日を思う 陸上の山縣亮太選手 曽祖父が犠牲

 被爆地広島は5月19~21日、先進7カ国首脳会議(G7サミット)の舞台となる。首脳たちが訪れるであろう平和記念公園(広島市中区)はかつて、市内随一の繁華街だった。市民の暮らしがあった。そしてあの日、一発の原子爆弾により、街も幾多の命も消えた。陸上男子100メートルの日本記録保持者、山縣亮太選手(30)=セイコー=の曽祖父も、その一人。一家の歩みをたどり、家族の思いを聴いた。(編集委員・田中美千子)

消えた営み 資料館の下に G7首脳の訪れ待つ

 山縣選手が繰り返す「より良い世界に」という言葉。その家族の歴史を知ると、一段と重みを増して迫ってくる。曽祖父は貞一さん、といった。住まいは広島市材木町(現中区)。今は原爆資料館本館が立つ地に、山縣家の暮らしはあった。原爆がさく裂するまでは―。

 公文書や遺族の話によれば、貞一さんは宮島の生まれ。手先が器用で、木工職人として生計を立てていた。相模(さがみ)さん(1983年に82歳で死去)と結婚。長男の勇さん(2015年に91歳で死去)の誕生後、材木町南隣の木挽町に転居した。そこで、もう4人の子を授かり、新たな商売も軌道に乗せた。「山縣刃物商」として、大工道具を製造、販売していた。

 だが一家も太平洋戦争に巻き込まれていく。家業を手伝っていた勇さんは召集され、戦艦「伊勢」の乗組員に。自宅は強制疎開となり、材木町へ移った。いっそ郊外へ疎開しようと、今の佐伯区五日市町にバラックを建設中、45年8月6日が訪れる。

 あの日の出来事を次女の吉本ノブさん(01年に69歳で死去)が生前、中国新聞の取材に語っている。女学生だった自らは爆心地から1・6キロ、現在の中区千田町にあった動員先の広島貯金支局で被爆。5日夜に五日市から戻っていた貞一さんは自宅で爆死した。51歳だった。骨を拾ったのは8日。「首から上だけが地面に出ていた父の亡きがらを見てひざが震え、母が喉仏の骨を納める際には思わず目を背けてしまいました」

 二男の俊彦さん=当時(16)=も犠牲になった。市立第一工業学校(現県立広島工高)4年生。動員先は郊外の軍需工場だったが、この日に限って、自宅南の水主町(現中区加古町)にあった県庁北側で家屋の解体作業に駆り出されていた。遺骨さえ見つからず、墓には家族の元に1枚だけあった遺影を納めたという。

 一家7人のうち5人は戦争を生き抜いた。長男の勇さんは7月下旬、乗っていた伊勢が呉市沖で攻撃され大破、着底。九死に一生を得て、原爆投下7日後の広島市に入っていた。軍から許された8時間、必死に家族を捜し、消息をつかめないまま広島を後にした体験を書き残している。

 戦後は平和記念公園向かいの中島町で暮らし、機械製造などで家族を養った。長男の隆一さん(69)=呉市=によると、被爆後の惨状はあまり語らず、幼い頃に遊んだ川の美しさや商店の活気などの思い出は口にした。原爆資料館周辺の絵もよく描いたという。

 5人のうち今も健在なのが、末っ子の隆芳さん(88)=西区。山縣選手の祖父に当たる。当時は宮島の親戚に預けられていたが、原爆投下前日に帰宅し、千田町で被爆。戦後に20代半ばで早世したという長姉の一ノ瀬カツ子さんと、一緒に逃げたようだ。

 ただ当時の記憶は一切、語らないのだという。長男で、山縣選手の父浩一さん(62)=同=は16年5月、オバマ米大統領(当時)を被爆地に迎えた日を思い出す。自らは演説に感動したが、いつもは穏やかな父の目が怒りに満ちていた。「父と兄を、暮らしをもぎ取られた。理不尽という言葉で語れないほどの思いを抱えるからこそ、口にしたくもないのでしょう」

 一家の被爆の実態は思わぬ形で世に出た。広島市文化財団が15~17年、原爆資料館本館の免震工事を前に実施した一帯の発掘調査で、財団が保存用に切り取った地表面が、山縣家の自宅跡の可能性が極めて高いと分かった。

 炭化したしゃもじ、食用油の成分が残った一升瓶、投網や重りの残骸…。原爆に踏みにじられた営みが地下75センチに眠っていた。「足元から薄皮一枚の場所。街はきれいに整地され、私たちは何もなかったように生きているのだと思うと、ショックだった」と浩一さんは振り返る。

 5月には、G7首脳が山縣家ゆかりの地に立つかもしれない。隆一さんは「訪れる人には、お墓のような場所でもあることを忘れずにいてもらいたい」。浩一さんは「核を人間に使えばどうなるか、リアルに見せられる場所。使えば後悔すると、核のボタンを握る権力者にこそ知ってほしい」と力を込める。

世界をより良い方向に向かわせて

 「子どもの頃から平和について意識することが多かった。自分が走ることでより良い社会になってほしい、多くの人に『スポーツって大切だね』と感じてもらいたい」

 山縣亮太選手は広島市西区出身。地元の鈴が峰小で陸上を始め、修道中・高(中区)、慶応大へ進み、競技を続けた。2021年6月に、100メートル9秒95の日本新を樹立。自ら更新すべく、横浜市を練習拠点に進化を目指している。

 どうすれば古里に恩を返せるか、そもそも自分は何のために走るのか―。日本を代表するスプリンターとして活躍しながら、考え続けてきたという。「スポーツを通じて世界をより良い場所にするために、この大会に参加する」。21年夏に日本選手団主将として臨んだ、東京五輪開会式の「宣誓」に答えの一端がにじんだ。

 「平和の祭典」である五輪を3度経験。平和発信へ、古里で開かれる歴史的な国際会議となる広島サミットにも期待を寄せる。「世界がより良い方向に向かっていけるよう、建設的な話し合いをしてもらえたらうれしい。これに尽きます」

紙面編集・杉原和磨

(2023年1月1日朝刊掲載)

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