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連載・特集

丸木スマ 平和の本質映した絵 孫の小田芳生さん×詩人のアーサー・ビナードさん

すらすらと 楽しそうだった

自然と対話 仲間として描く

 「平和の本質に一番深いところでつながっている」。詩人のアーサー・ビナードさん(55)は、丸木スマさん(1875~1956年)の絵をそう評する。広島市出身で「原爆の図」を妻の俊と合作した画家丸木位里の母。70歳を超えて初めて絵筆を執り、動物や草花などを素朴なタッチで描いた。平和と命の尊さをあらためてかみしめる今、スマさんの絵について孫にあたる小田芳生さん(81)=安佐南区=とビナードさんが語り合った。(西村文)

  ―スマさんの創作の背景を教えてください。
 小田さん 私の少年時代、祖母は一年を通じて東京の長男(位里)、広島県加計町(現安芸太田町)の次男、三滝町(現広島市西区)の三男の家を回って生活していた。私の父である次男のところには、春休みになるとやってくる。当初は、私が庭から採ってきた紅葉に絵の具を付けて紙に押していたが、数年後には筆ですらすらと。「日照りのときの田の草取りに比べたら楽なもんよ」と楽しそうに描いていた。

 ビナードさん 70年間、イノシシと一緒に畑を耕した人の絵だよね。動物や草花と対話して、仲間として描いている。だから面白いし、親しみが湧く。平和の本質と一番深いところでつながる生き物の命を表現している。(七福神とタヌキ、母犬と子犬などを描いた作品を見て)すごい絵。「異時同図」と言って、幾つかの物語が同居している。スマさんの作品の広がりには驚かされる。

  ―スマさんの絵をどう評価しますか。
 ビナードさん 作品を知ったのは、原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)に初めて行った1998年ごろ。展示室に入って、衝撃を受けた。地球上で一番すごい。モネやゴッホが負けちゃう。例えば、スマさんが描いたネコの絵。もしネコがネコを描いたらこういうネコになるな、と思わせる。上手下手を超えた説得力があって、どんなに画家の技術があってもかなわない。色の組み合わせも天才だよね。

 小田さん 当時、有名な画家たちが「スマさんに会いたい」と訪ねてこられた。小林和作さんは「あなたの絵はとても色鮮やか。良い絵の具を使われているのですね」と。実は、スマさんは孫の私も使っていた「ぺんてる絵の具」で描いていた。

  ―現在、広島でスマさんの作品を見る機会が少ないのは残念です。
 小田さん 昨年の秋に自宅で作品を公開した時には口コミで約130人の来場があった。広島市に「平和美術館」ができれば、私が所蔵する作品を貸与したい。南区にある最大級の被爆建物「旧陸軍被服支廠(ししょう)」を活用してほしい。

 ビナードさん 「平和」という理念の本質は、美術や文学でしか伝えることができないはずだ。太田川に育まれた命を描いたスマさんの絵には、原爆も含めたヒロシマを語る力がある。(旧陸軍被服支廠を平和美術館とする小田さんの考えについて)同感だ。新しい美術館を建てるのとはまったく違う説得力が、あの建物にはある。

丸木スマ
 1875年(一説には72年)広島県伴村(現広島市安佐南区)生まれ。97年に丸木金助と結婚、飯室(現安佐北区)で船宿業と農業に従事、3男1女を育てる。1931年、三滝町(現西区)に転居。45年、原爆に遭い、夫の金助は翌年死去した。長男位里の妻、俊の勧めで絵を描き始め、50年女流画家協会展に初入選、51年から院展に3年連続入選、院友になる。56年死去。

アーサー・ビナード
 1967年、米ミシガン州生まれ。詩人。90年に来日して日本語で創作を始め、詩集「釣り上げては」で中原中也賞、「ここが家だ―ベン・シャーンの第五福竜丸」で日本絵本賞。被爆者の遺品を題材にした写真絵本「さがしています」(2012年)の取材を機に、東京のほか広島市中区にも拠点を置く。「原爆の図」の絵を使った紙芝居「ちっちゃい こえ」を19年に刊行。

(2023年1月5日朝刊掲載)

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