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連載・特集

ヒロシマの記事 世界へ 平和メディアセンター開設から15年

 原爆の惨禍を伝えるヒロシマ発の報道を、新聞購読エリアに限定されることなく日本と世界に届けたい―。中国新聞社がヒロシマ平和メディアセンターを開設してから今月1日で15年を迎えた。記者たちが取材、執筆した記事を専用ウェブサイトに掲載。一部を英語など多言語に翻訳し、無料公開している。中高生記者「中国新聞ジュニアライター」の活動支援や、広島市立大と共催でのシンポジウム開催など、取り組みは多岐にわたる。2025年の被爆80年と、その先へ。さらに歩を進める。(金崎由美、新山京子)

ウェブで多言語展開 アーカイブ蓄積も

 原爆・平和報道と私たちが呼ぶ取材には、あらゆる分野の担当記者が関わっている。被爆者援護や毎年8月6日の平和記念式典の実施などを担う広島市については、主に市政担当が。さらに県政、文化、遊軍、司法などの担当や論説委員、編集委員、カメラマン…。地域経済とスポーツも、焦土からの復興の歴史とつながっている。

 歴代記者が人間の悲惨を紙面に刻んできた。被爆者の力の限りの訴え。なおもやまない核軍拡の実態。報道の蓄積は膨大だ。インターネットで発信できないか。そこで2008年に開設したのがヒロシマ平和メディアセンターだった。

 所属記者は週1回のページ「平和」を中心に記事を書いている。2020年度に新聞協会賞を受賞した連載「ヒロシマの空白 被爆75年」などで、取材班の拠点としても機能してきた。

 被爆体験や軍縮、世界の核被害や平和問題に関する日々の紙面掲載記事(共同通信の配信を除く)はウェブサイトで全文公開。3万4千本を超え、うち7500本以上を英訳している。ここ15年間の掲載分だけでなく、世界中の知られざる核被害を伝えた「世界のヒバクシャ」など過去の代表的な連載もある。

 昨年、ロシアがウクライナを軍事侵略し、プーチン大統領が核兵器使用までほのめかしている。被爆地からの訴えはさらに重みを持つ。「核兵器にも戦争にもノー」の思いを語ってもらう連載「ヒロシマの声」は、ロシア語と英語で記事と動画を展開している。

 不定期でフランス語と中国語への記事翻訳も。英語、ロシア語と合わせ核兵器保有5大国の言語で発信している。今年は広島での先進7カ国首脳会議(G7サミット)や、核兵器禁止条約の第2回締約国会議が予定される。広島、日本と世界の人たちが、差し迫る危機と核兵器廃絶への希望がないまぜの「今」を知り、歴史を振り返るためのアーカイブ(保存記録)である。

平和学習に活用

栃木の高校生

 ウェブサイトは平和学習にも活用されている。

 「広島と長崎から離れた地域で、原爆について知る機会は多くない。きっかけをつくりたい」。栃木県佐野市の佐野高2年、青木藍花さん(17)は使用許可手続きを経てウェブサイトから記事と写真を転載し、校内に掲示。生徒に注目を呼びかけている。

 学校の課題研究で、大人と子どもが共に学ぶ「平和の絵本」の創作に取り組んでおり、記事の掲示はその一環だ。昨年掲載された在米被爆者の笹森恵子さんの体験を伝える「記憶を受け継ぐ」などを選んだ。顔や手にやけどを負いながら、懸命に体験を証言する姿に心を動かされたという。

 中学生の時に原爆の問題に関心を抱いた。昨年は広島県主催の「ひろしまジュニア国際フォーラム」にオンライン出席。夏休みに念願の広島訪問を果たした。知ろう、との思いをさらに強めている。

ジュニアライター活動

 取材と報道、多言語発信と並ぶ取り組みの柱が、中国新聞ジュニアライターの活動支援だ。広島の新聞社としての「被爆体験の次世代継承」の実践である。

 「大人記者」の取材に同行して被爆者から体験を聞く「記憶を受け継ぐ」、特定のテーマを掘り下げる特集「ジュニアライターがゆく」などを担当。核軍縮や国際協力の実情を探る取材の機会も少なくない。

 経験者は160人を超え、各分野に羽ばたいている。現在の登録は中1から高3まで25人。6年間、活動を続けるメンバーもいる。現役生と卒業生、2人の声を紹介する。

高3 桂一葉さん(18)

原爆資料館の清掃 印象深い

 6年間で約50本の記事を書きました。記事を書く担当でない時でも取材には参加したり、ウェブサイトだけに載せる記事や感想文を書いたりもしています。

 取材先は被爆者や平和活動家、研究者とさまざま。学校では出会えない人たちです。いつもと違う取材で印象に残っているのは原爆資料館での清掃体験でした。閉館後、学芸員と展示された被爆資料のほこりを丁寧に払います。熱線で溶けた被爆瓦の凹凸に圧倒され、資料や遺品に対する考えが大きく変わりました。

 オンライン取材でも視野を広げました。核実験場だったマーシャル諸島の男性に英語でインタビューし、核実験の被害は地域文化や人権にも及ぶと知りました。世界の核被害を考えるきっかけになりました。

 私は台湾の大学に進学します。海外から日本の歴史を学びたいからです。多国籍の友達をたくさんつくって、ヒロシマを伝えます。

俳優(劇団あはひ) 松尾敢太郎さん(24)=東京都

人とのやりとり 原型学んだ

 大勢の被爆者と出会いました。初めての「記憶を受け継ぐ」の取材で、下広鳴美さんの自宅を訪ねた時のことをよく覚えています。

 対面で絞り出される言葉の一つ一つに強烈なまでの切実さがありました。私たちに伝えようと、つらい記憶のふたを開けて言葉を紡ぐ葛藤が伝わってきました。

 それまで学校の平和学習で被爆体験を聞くことは何度もありました。しかし、体育館に並んで座る生徒に語り掛ける被爆者をどこか遠い存在のように感じていたのです。大勢で聞くと散漫になってしまいがちな部分を、正面から受け止める機会になったと思います。

 「対話」は簡単なようでエネルギーが必要だと知りました。同時に、記者という仕事にはコミュニケーションの本質が詰まっていると考えました。人と人とのやりとり。その原型を学びました。今、舞台で言葉を扱う私を支えています。

ノンフィクション作家 梯(かけはし)久美子さん(61)

質の高い報道 将来世代のために

 戦争をテーマに取材を重ねる上で重要なのは、日記、手紙、当時の行政文書などの一次資料だ。生存者からの聞き取りも。一方、世間の受け止めと変遷を知るには新聞記事が決め手となる。

 大学の研究者だけでなく市民も等しく無料でアクセスできる情報ソースは貴重。ヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトは、世界に誇るべき戦争アーカイブだ。

 私にとって、ことヒロシマとなれば心のハードルは高かった。当事者ではない自分に悲惨な事実と向き合う覚悟はあるのか、と。取材に踏み出すきっかけを得たのは、原爆資料館が収蔵する遺品を撮る写真家、石内都さんを通してだった。

 撮影に同席した2010年のことが忘れられない。原形をとどめないほど破れたブラウスの前立てに、美しい赤いバラのボタン。石内さんは、遺品と対話するように鮮明な赤を撮っていく。被爆前に着ていた人間の姿を思った時、私とヒロシマとの間の「回路」が通じたように感じた。

 だが最初は知らないことが多々ある。解説コーナーが充実し、さらに記事で深掘りできるウェブサイトは大いに参考になった。

 報道の質と量に圧倒される。未解明の原爆被害を追い、壊滅前の街並みの写真も集める「ヒロシマの空白」から、記者の「諦めない」との執念が伝わる。イラクなどの現場を歩いた2000年の「知られざるヒバクシャ 劣化ウラン弾の実態」は、あらゆる核被害は現在進行形であり、被爆地だけでなく世界の問題だと警鐘を鳴らす。

 戦争体験者は年々少なくなる。証言などをさまざまに記録し、将来世代が他の資料と突き合わせて歴史を検証できるようにしておくべきである。今日のベタ記事も、後に歴史の証拠となる。公共の財産だ。

 その役割を担うのが中国新聞であり、ウェブサイト。取り組みは容易でないだろう。被爆地のメディアとしての責任を貫く矜持(きょうじ)を感じる。もっとも、他の地方紙にもアーカイブ化と公開に値する戦争、公害、人権問題を巡る報道の蓄積があるはずだ。

 体験継承という重い責務を広島と長崎だけに背負わせ続けてはならない。将来にわたり、日本と世界で担い手となる「よそ者」にとっての情報源であってほしい。(談)

 熊本市生まれ。北海道大卒。「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」で大宅壮一ノンフィクション賞。著書に「原民喜 死と愛と孤独の肖像」など。最新刊は「この父ありて 娘たちの歳月」。札幌市在住。

被爆者 サーロー節子さん(91)

広島とカナダを結ぶパイプライン

 ヒロシマ平和メディアセンターが中国新聞社に新設される―。カナダに住む私にその知らせが届いた時、ついに被爆地の報道機関にしかできない世界への情報発信が始まる、と小躍りせんばかりに喜んだことを覚えている。

 思えば私は中国新聞に養われたようなものである。

 広島女学院高2年の頃、本社に通って紙面整理を学び、学校新聞の創刊に加わった。戦後復興期は、まちの将来や原爆被害者の救済を巡り市民が熱く意見を交わす場が新聞の投書欄だった。「大人たちはどう広島を立て直すのか」と思いながら読みふけった。

 その当時から連綿と続く報道と、今はウェブサイトでつながっている。素晴らしい英訳記事は周囲と共有できる。私にとって広島とカナダを結ぶ大切なパイプラインだ。

 世界各地で講演したり、国際会議に出席したりしてきた。若者に体験を語る機会も多い。発言には責任が伴う。常に「核兵器を巡るこの問題は、広島でどう評価されているか」などと考える。ウェブサイトで情報を得て、海外の論調や自分の考えと突き合わせている。

 広島へ一時帰郷した2018、19年にジュニアライターから取材を受けた。他にない取り組みだろう。被爆者の思いを受け継いでほしい。子どもを持つ知人にも参加を勧めている。

 記者はジャーナリストであると同時に一人の市民。核兵器に脅かされることのない世界をつくる責任を私たちと共有し、発信し続けることを期待する。(談)

 広島市生まれ。13歳の時、爆心地から約1・8キロの学徒動員先で被爆。広島女学院大卒。カナダ・トロント大で修士号。2017年、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)を代表してノーベル平和賞授賞式で演説。トロント市在住。

ツイッター  @chugoku_peace
インスタグラム  hiroshima_peacemedia

(2023年1月9日朝刊掲載)

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