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連載・特集

緑地帯 本田美和子 写された広島城③

 広島城の天守は大天守に小天守が2基連結した姿をしていた。小天守については明治初頭に解体されており、その姿をとらえた写真は現段階では一種類しか知られていない。

 さて、天守は城の大手門からまっすぐ北の延長線上に築かれていた。逆に門から南にはまっすぐ道が延びており、この道(以下、大手筋と表記する)は城下の町割りの基準線だったとも言われている。大手筋は今も残されていて、メルパルク広島から南に延びて、途中で県民文化センターが面している道がそれにあたる。私は、江戸時代にこの道に立って北を向いたら威容を誇る天守がバッチリ見えていたはずと考えていたのだが、ある日「待てよ」となった。

 前回紹介した徳川慶勝の写真に写っている天守を見ていてふと気が付いたのだ。天守、意外と小さく見える…。慶勝が写真を撮影した地点は天守から約470メートル、大手門は約820メートルだから、その南側の大手筋からはもっと小さく見えたはずだ。戦前の紙屋町交差点を南から撮影し、天守が写っている写真を見てもかなり小さく写っている。こうしたわけで、城の南側に展開していた城下中心部からはもちろん、見通しの良かったはずの大手筋でも、町人は天守の豪華さを実感できなかったのではと今は考えている。

 ただ城下の町人が城内に入る機会はあった。例えば城内三の丸にあった稲荷社の2月の祭礼には庶民も参詣することが許されていた。ここは天守から約310メートルで見通しはよいので、その立派さを実感することができたに違いない。(広島城学芸員=広島市)

(2023年1月10日朝刊掲載)

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