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「兵隊さん」の行李 宮崎の縁者名乗り 広島の土本さん活用願う

 アマチュア映像作家グループ・広島エイト倶楽部(くらぶ)の会員土本誠治さん(75)=広島市東区=が、下松市笠戸島の実家に眠る軍用行李(こうり)の持ち主を捜していたところ、宮崎県都城市に住む縁者が名乗り出た。土本さんは「持ち主の郷里で戦時下の『証人』として生かしてもらえれば何よりです」と話している。

 行李は木製で「宮崎県都城市下長飯町1877 田中茂」と墨書きしている。中国新聞が昨年11月「『兵隊さん』の行李 持ち主は」と題して報じた後、土本さんは地元紙の宮崎日日新聞にも協力を依頼。12月8日付記事で同様に呼び掛けると、めいの村岡ひさ子さん(67)が名乗り出た。

 村岡さんによると田中茂さんは都城市生まれ。戦後は国鉄(現JR)で長く働き、鹿児島市をついのすみかにして1998年に77歳で亡くなった。村岡さんは「宮崎では労働組合の組合長だったそうです。近寄り難い印象はありましたが、母は伯父をとても慕っていました」と思い起こす。

 村岡さんが宮崎県に尋ねたところ、旧陸軍に兵籍があることが判明。今後、親族として軍歴照会の手続きを進める。「下長飯町1877」は現存しないが、田中さんの父親の埋葬許可証に記されていた50年当時の住居表示と一致した。

 笠戸島本浦の土本さんの実家には45年春ごろから約20人の軍人が寝泊まりしていたと伝わる。笠戸湾では周南市櫛ケ浜に陸軍船舶司令部(通称暁部隊)の機動輸送補充隊などが展開していた。映画「喜びも悲しみも幾歳月」主題歌などで知られる作曲家木下忠司さん(2018年死去)も下士官の一人で、この地から朝鮮海峡警備の任を帯びて玄海灘で敗戦を迎えた思い出を手記に残している。

 しかし「本土決戦」が叫ばれていた当時の笠戸島の陸海軍の動向については不明な点が多い。田中さんの部隊の実態解明が鍵になる可能性はある。

 都城市には明治以来、陸軍の歩兵連隊が置かれていた。太平洋戦争敗戦の1945年には市内の飛行場から特攻隊が飛び立ち、広島に原爆が投下された8月6日には大空襲で市街地が被災した。土本さんは「行李をお返しし、資料館などを含め末永く保管してもらえればうれしい」と話す。(客員特別編集委員・佐田尾信作)

(2023年1月9日朝刊掲載)

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