×

連載・特集

緑地帯 本田美和子 写された広島城②

 前回でも少し触れたとおり、広島城を最初に写真に収めたのは前尾張藩主徳川慶勝で、元治元(1864)年のことである。この時彼は第1次長州戦争の幕府軍総督として戦争の前線基地となった広島に来ていたのだ。慶勝は趣味としていた写真機材を広島に運んでいるのだが、この頃のそれは現在では想像もつかないほど大きく重いものだった。

 これから30年後の明治27(1894)年、やはり写真機材を携えて広島入りした人物がいる。名前は亀井茲明(これあき)伯爵。彼は旧津和野藩主亀井茲監(これみ)の養子で、日清戦争勃発に際して自費で写真班を編成して宇品港から戦地に赴いたのだ。この時7台のカメラを運んだのだが、その機材を収めた行李(こうり)は11個、総重量は約950キロに達している。最大のカメラの重量は実に28キロであった。ちなみに感光材はガラスだったので、それを装着するとさらに重くなった。なお、茲明は戦地に行く前に二葉山から広島市内を撮影しており、それには広島城の天守や堀も写っていて貴重なのだが、カメラを山に上げるのは大変な作業だっただろう。

 カメラが相当重たかったこと、慶勝が幕府軍の総督であったことから、あちらこちらでの撮影はできなかったようで、宿舎としていた城内の三原浅野家の屋敷内やその周辺で撮影を行っている(現在の市中央図書館)。屋敷前から南を撮影した写真には城の大手門が写っている。また屋敷が南側中堀に隣接していたため、中堀に設けられていた平櫓(やぐら)や南御門も撮影されている。平櫓の写真をよく見るとその背後には天守が写っている。(広島城学芸員=広島市)

(2023年1月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ