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連載・特集

緑地帯 本田美和子 写された広島城⑥

 近代以降、旧広島城は城郭建築物の破却や堀の埋め立てなどにより姿を変えていた。とはいえ、本丸・二の丸に天守や門・櫓(やぐら)が残されていたほか、中堀の一部や外堀の櫓台石垣などが街中に残されており、被爆後の広島をとらえた写真の中にもその姿を確認できる。しかし、昭和24(1949)年の広島平和記念都市建設法施行以降に広島の復興が進む中、中堀や櫓台石垣は姿を消し、城があったことを伝えるのは内堀と本丸・二の丸(以下、広島城址(じょうし))のみとなる。広島城址はしばらく荒廃した状況となっていたのだが、人々が再び広島城に思いをはせるきっかけが訪れた。

 昭和26(51)年に広島で国体が開かれることになり、その協賛プレイベントとして3月25日から5月27日を会期として体育文化博覧会が広島城址一帯で開催された。スポーツ館・輝く健康館などのパビリオンやおさるの電車・スイッチバックレールウエイなどの遊具が設けられたほか、木造仮設の模擬天守が大天守台上に建設されたのだ。模擬天守の中では広島城のパノラマ模型や都市・観光・産業などに関する展示がされたほか、展望台として町を一望できた。一回り小さな仮設の天守だったが、写真に残されたその姿はなかなかの出来栄えである。市民の間に天守への関心を呼び起こすことになったが、期間限定のものだったため国体終了後に解体されている。

 その後、再び寂しい状態が続くが、昭和28(53)年3月31日付で広島城址は国の史跡に指定され、昭和31(56)年には史跡を含む一帯が中央公園として整備が進むことになる。(広島城学芸員=広島市)

(2023年1月13日朝刊掲載)

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