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連載・特集

『生きて』 ゼネラル興産会長 山下泉さん(1936年~) <2> 幼少期

川遊びが好きな次男坊

  ≪1936年8月20日、広島市佐伯郡八幡村(現佐伯区五日市町)の農家に次男として生まれる≫
 男3人女3人のきょうだいの3番目。5人は戦争前に生まれ、末の妹だけ戦後の47年生まれ。長女は中学1年の時に原爆の犠牲になった。

 幼少の頃の記憶はあまりないが、元気でやんちゃな子であったことは間違いない。家にいることはあまりなく、とにかく屋外に出て近所の友達と遊んでいた。特に川遊びが好きで、2歳上の兄や近所の友達とよく魚捕りに出かけた。夏は家の近くの石内川でアユ、コイ、ウナギ、ハゼなどを求めて真っ黒に日焼けしていた。梅雨時季は川が増水しカニが流れ出るのを捕っていた。戦時中は食べる物が不足していたので、そのカニが大好物だった。

 当時はほとんどの成人男性が兵隊に取られていた。よくよその家の田畑の手入れの手伝いに行き、ご褒美としてふかしたサツマイモをもらっていたような時代だ。

 秋はマツタケ狩りが日課だった。家の近くの鈴が峰に当家所有の山林があった。当時の国民学校、今でいう小学校から帰ったら兄と大きな籠を背負って出かけた。当時は豊作続きで籠いっぱいに採れる。あまりに重いので、家に帰る途中で近所のご婦人方に配って歩いていた。戦争中も戦後も学校に持って行く弁当のおかずは焼きまつたけばかりでうんざりしていた。その山林も64年の火災でアカマツの林が全焼し、マツタケが採れない山になってしまった。

  ≪小学3年で45年8月を迎える≫
 8月6日の数日前、記憶は定かではないが、わが家の山林に米軍の戦闘機が落下したので兄と見に行った。おそらく現在の佐伯区五日市町の広島ゴルフ倶楽部(くらぶ)鈴が峰コースの3番と9番ホールの谷間だと思う。機体は焼けていたが、落下傘を背負った米兵2人がマツの大木の枝に引っかかっているのを見かけた。

 その時一番驚いたのは、近くに落ちていたタイヤの大きさだ。幅が50センチ、直径が150センチ以上はあった。日ごろ人力車かリヤカーの小さな車輪しか見たことがなかったから、子ども心に米国との戦争は勝てないと感じたことを記憶している。

(2023年1月25日朝刊掲載)

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