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連載・特集

『生きて』 ゼネラル興産会長 山下泉さん(1936年~) <3> 被爆体験

県女1年の姉を亡くす

  ≪1945年8月6日、広島県佐伯郡八幡村(現広島市佐伯区五日市町)で被爆する≫
 夏休みだったが、八幡国民学校(現八幡小、佐伯区)近くの鈴が峰の西側にあるヒマシ栽培地の手入れのために、3年の20人程度が午前8時に校庭に集合した。栽培地に向かう途中、石内川の橋の上で原爆に遭った瞬間は、爆風だけだった。しばらくすると広島市中心部の空にきのこ雲が現れ、黒い雨が降ってきた。

 黒い雨は石内川の水を真っ黒に染めた。日ごろ苦労して捕っていた魚が大量に死に、水面から白い腹を見せて流れていた。残念そうに眺めていると近所の年配の人から「流れている魚は毒が入っているから捕ったら駄目だ」と注意された。

 昼過ぎに家に帰ると大変な事態が発生していた。県立広島第一高等女学校(県女・現皆実高)に通っていた姉の俊枝=当時(12)=が、勤労奉仕の最中に爆弾の犠牲になったらしいという知らせが入ったのだ。爆心地に近い現在の中区土橋町辺りでの木造家屋の解体作業のため、1年生が活動を始めたばかりのときだった。

 母は姉を捜しに現地に行くことになったが、結局その日は発見できなかった。帰宅した母は落胆というより途方に暮れた姿で、手が付けられない状態だった。

  ≪翌日の早朝、俊枝さんが現在の草津小(西区)まで火災を逃れて帰ってきていると情報が入る≫
 母は親戚と一緒にリヤカーで向かった。姉は運良く見つけられたが、帰宅途中に息を引き取ったと聞かされた。田舎の学校から県女に合格し、入学して4カ月でこんなことになるとは誰にも予想できなかった。母がいつも姉のことを「5人の子どもの中で一番頭の良い子で、希望の星と思っていた」と言っていた。私自身、子どもながらに母のために思ったことがある。「人間には必ず寿命があり、いずれ死んでいく。だからこそ、生きている限りはしっかり生きなければならない」

 数日後、国民学校に登校すると、講堂の軒下までやけどを負った人があふれていた。悲愴な情景というより大惨事だった。今でも思い出したくない光景だ。

(2023年1月26日朝刊掲載)

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