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[ヒロシマの空白 街並み再現] 広島駅前の「〇一旅館」 在りし日の写真 家族の形見

資料館に寄贈 陸の玄関口 様子伝える

 再開発が進むJR広島駅南口(広島市南区)エリアに被爆前にあった旅館「〇一(まるいち)旅館」の写真2枚が、原爆資料館(中区)に寄贈された。寄贈者は、この旅館が実家だった沖田完二さん(86)=南区。米軍の原爆投下で両親たち家族5人を奪われ、旅館は廃業を余儀なくされる中、写真を形見として大切にしてきた。資料館は陸の玄関口の在りし日の街並みと被害実態の発信に生かす。(編集委員・水川恭輔)

 〇一旅館は1918年、広島駅正面の現在は福屋広島駅前店がある一角で創業し、沖田さんの父磯太郎さんが経営していた。奥行きが長い木造3階建てで、1階の客室のそばには中庭もあった。駅前でよく知られた旅館の一つだった。

 沖田さんは8人きょうだいの7番目。8歳の途中まで旅館1階にあった住居部分で家族と暮らしていた。「友達がよく遊びに来ました。2階にお客さんの布団をまとめて保管する10畳ほどの部屋があって、そこでかくれんぼをしてねえ」。思い出は尽きない。

 ただ、国民学校3年に上がる45年春、母津智與(つちよ)さんに連れられて岡山県内の親戚宅に疎開した。初めの2日ほどは母も一緒に過ごしたが、ある日の朝、起きた時には姿がなかった。

 「私が泣いて後を追うのがつらいから、寝ている間に帰ったようです。後ろ髪を引かれる思いだったのでしょう」。戦争さえ終われば、また旅館で家族一緒に暮らすはずだった。だが、それはかなわなかった。

 8月6日、原爆の爆心地から約1・8キロにあった〇一旅館は倒壊し、全焼。旅館にいた磯太郎さん=当時(54)=と津智與さん=同(48)、上から3番目の姉三枝子さん=同(21)、兄利夫さん=同(15)、弟勝邦さん=同(6)=の5人が犠牲になった。後に旅館の焼け跡から遺骨が見つかった。

 建物も経営者も失った〇一旅館は戦後、再起できなかった。沖田さんは46年の春に広島市へ戻り、助かった4番目の姉と旅館の跡近くのバラックで暮らすなどして戦後を生き抜いた。

 資料館に寄贈した2枚は「〇一」の看板が掲げられた旅館の外観(43年ごろ撮影)と玄関(40年撮影)の各1枚。沖田さんは「私にとっては、子どもの頃の和やかな生活が思い出される2枚です。戦争や原爆はそんな日常を一変させてしまうと写真から少しでも伝わってほしい」と話す。

 外観の写真は隣の建物の「生かき」の看板も写り、当時から駅前で特産品を押し出す様子が伝わる。玄関の写真は、被爆死した父たちも写っている。資料館は「被爆前の広島駅前、そこで原爆の犠牲になった家族の存在を伝える上で貴重な資料だ。新着資料展などで紹介したい」としている。

(2023年1月30日朝刊掲載)

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