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粘り強い訴え 日本政府動かす 在外被爆者の援護に道 郭貴勲さんを悼む

 在外被爆者への援護を切り開いた、郭貴勲(クァク・クィフン)さんが98歳で昨年末に逝った。日本が朝鮮半島を植民地支配した末に被爆し、辛酸をなめ亡くなった同胞らの思いも胸に苦闘を重ねた。「被爆者はどこにいても被爆者」。この訴えは今世紀に入り、日本政府を動かした。未来に向けて歴史を見つめることをも問うた在韓被爆者の歩みをあらためてたどる。

 「校長になって宴会が避けられないと、お酒を飲む練習までした。努力家であり意志の強い人でした」。広島市南区に住む井下春子さん(90)は1982年ソウルの延世大語学堂に留学して親交を結び、深めた。在韓被爆者の渡日治療を手助けしていた彼女を通じ、筆者は郭さんの知遇を得た。

 中国新聞の連載「世界のヒバクシャ」の取材で韓国を訪れた89年、ソウルの東国大付属高校長を退職したばかりの郭さんは自ら1300キロにわたってハンドルを握り、原発がある寒村地を回ってくれた。87年の民主化を機に、下請け作業員らの被曝(ひばく)問題があらわになっていた。

 元作業員や家族の切実な不安を通訳すると必ず、韓国ではほとんど知られていないピポックチャ(被爆者)の存在や顧みられない苦難を伝えた。銭湯を共にすると、傷痕のケロイドが腹や背中に残っていた。

 郭さんは、全州師範学校在学時の44年9月、朝鮮半島からの徴兵1期生として広島へ。そして45年8月6日、爆心地から北東約2キロ、現中区白島北町で原爆に見舞われる。創氏改名による「松山忠弘」名の軍隊手帳や、「原子爆弾ニ依リ受傷…」の罹災(りさい)証明書を携えて翌9月、山口・仙崎港から解放された祖国に戻った。

 ハングルの読み書きを学び直して教師となり、59年に国内初の原爆体験記を「韓国日報」で発表。国交回復2年後の67年、広島を再訪して日本の原爆医療法を知り、韓国原爆被害者協会の創設に参画する。

 「会員は怒りのはけ口がなく、集まるとマッカリを飲んではどなり合う」頃から、補償と謝罪を訴えた。会長を長年担った辛泳洙(シン・ヨンス)さん(99年に80歳で死去)を友としても支えた。日本に招かれての行動には韓国中央情報部(KCIA、現国家情報院)が目を光らせていた。

 ようやく日本政府は90年の日韓首脳会談で、「人道的支援」として40億円の拠出を表明する。会長を92年に引き受けた郭さんは「われわれは同情を求めているのではない」と憤った。

 海外最多の在韓被爆者は、渡航費を捻出して被爆者援護法に基づく健康管理手当の支給をみても、出国した途端に打ち切られた。郭さんは自らが原告となり98年大阪地裁に提訴。「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」が支援した裁判で、旧厚生省402号通達の違法性が明らかとなり、2001年勝訴した。高裁でも敗訴した国は上告を断念し、03年に通達を廃止する。「被爆者はどこにいても被爆者」との訴えが、北米・南米に渡った日系人被爆者の権利回復にもつながったのだ。

 約3万5千枚に及ぶ訴訟資料は12年に国史編纂(へんさん)委員会へ託し、著書「私は韓国人被爆者だ」を翌年に出版。「韓日の未来をつくる若い世代に私たち被爆者の歩みを知ってほしい」と語った。日本語版は井下さんが翻訳し、全国各地の大学・公設図書館に贈った。

 山登りで鍛えた足が衰え広島を訪れたのは19年が最後となった。原爆資料館のリニューアル展示に応じ、軍隊手帳や罹災証明書のレプリカを作り提供した。実物は独立記念館(忠清南道天安市)に収めている。

 本紙4日付追悼記事は、郭さんが結婚後に被爆による子どもへの障害を懸念していたというが、そのようなことは起こらなかった。3男2女に恵まれ、カナダやドイツにもはばたいた。孫が日本留学すると喜んだ。二つ年下の妻、金南貞(キム・ナムジョン)さんをみとった2カ月後に息を引き取った。文字通り愛妻家でもあった。(元特別編集委員・西本雅実)

(2023年1月30日朝刊掲載)

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