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社説・コラム

『今を読む』 広島大名誉教授 利島保(としまたもつ) 放影研の広島大霞地区移転

国際人材養成 新たな使命に

 放射線影響研究所(放影研、広島市南区)の広島大霞地区(南区)移転が新年度政府予算案に事業費として計上されたとの記事を本紙で読んだ。霞地区への移転といっても、広島大には既に原爆放射線医科学研究所(原医研)がある。類似の施設が同じ場所に存在することに、どんな意味があるか。疑問を持つ人がいても不思議はないだろう。

 私は、放影研の前身のABCC(米国原爆傷害調査委員会)の遺伝学部長や、放影研の理事を務めたウィリアム・シャル博士の回想録「廃墟からの歌声」を翻訳した。その立場から、移転の意義と将来展望について考えてみた。

 当時のトルーマン米大統領は、原爆の人体への影響について長期的な研究に着手するよう指示を出した。そのための実働組織として、ABCCが広島・長崎に設置された。

 広島市では、終戦間もない1947年、広島赤十字病院(中区)に間借りして開設され、50年に最新研究設備を備えた施設として比治山公園(南区)に建設された。広島市は連合国軍総司令部(GHQ)に忖度(そんたく)し、市民の賛意を得たとして、比治山の軍人墓地などを半ば強引に移転させてABCCを建設した。

 しかし経緯をたどると、本当に市民の賛意が得られていたのかという疑問は残ったままだった。また、占領下の市民にはABCCが戦勝国のシンボルと感じられていたし、米国の設置目的として、被爆医療に直接関わらない方針が徹底され、被爆者や関係当局の期待は裏切られた。

 特に被爆者の健康診断という名の下、医療より、原爆による被災状況の調査研究に主眼を置いていたため、被爆者はモルモット扱いにされたとの認識が強くあった。今でも一部の被爆者はある種の嫌悪感を持っている。

 このような市民感情を受けて、市は半世紀近くも前から放影研の移転を模索し続け、ようやく霞地区への移転案に至ったのであろう。

 当初、ABCCが被爆者の健康調査、病理的調査に協力を求めた日本側の研究機関は、東京大や京都大だった。そのため、当時は呉市阿賀にあった広島大医学部との間にわだかまりがあったとシャル博士は述べている。霞地区に放影研と原医研が併存することで、50年以上も前のわだかまりが残ってはいないか、危惧される。

 放影研には、放射線に関する被爆直後からの測定資料や、占領期にしかできなかった疫学的研究データの蓄積がある。他方、原医研には被爆医療や放射線生物学などの研究の蓄積がある。その意味で移転後は、双方で研究上や医療上の情報補完が今まで以上に可能になるはずだ。

 かつて最新の電子計算機や測定機器、国外の学術情報を備えていたABCCは、戦後の貧弱な研究状況にあった国内の多くの研究者たちの垂ぜんの的だった。加えて、米国の財団などから豊富な研究費支援を受けていたので、最盛期には千を超す研究者とスタッフがいた。

 しかし、71年にドル危機を迎えて以降は、米国政府予算の大幅削減により慢性的な運営難に陥った。そして、米国政府と日本政府とが共同出資する公益財団法人として、放影研に改組された。

 その後も運営資金不足は解消せず、長期の研究継続は難しく、さらに建物や施設の老朽化もあって、わが国唯一の日米協力研究機関の存在が危ぶまれてきた。

 世界では今、ロシアのウクライナ侵攻により、核戦争の危機が懸念されている。このような研究機関の火が消えることは、被爆国として避けなければならない。

 今年5月には広島市で先進7カ国首脳会議(G7サミット)が開催される。これをきっかけに日本が主導して、国際的な研究連携を進めたい。放影研を核にした7カ国の研究機関や国際原子力機関(IAEA)との協力である。

 さらに放射線災害からの復興リーダーを育成する広島大大学院の先端的プログラムとの連携が求められる。放射線災害学の国際人材養成を担えば、放影研の新たな使命として期待できる。

 43年呉市生まれ。72年広島大大学院教育学研究科単位取得退学。同研究科教授、教育学部長・教育学研究科長、大学院リーディングプログラム特任教授など歴任。専門は発達神経心理学。著書に「心から脳をみる」「脳神経心理学」など。訳書に「廃墟からの歌声」など。

(2023年1月28日朝刊掲載)

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