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連載・特集

『生きて』 ゼネラル興産会長 山下泉さん(1936年~) <5> 修道ハンド班

強肩生かし全国大会へ

 広島市内の修道中2年の時に、日本体育大でハンドボールをやっていた平田幸男先生が赴任してきた。

  ≪1951年に広島県で開かれた国民体育大会をきっかけにハンドボールを始める≫
 国体のハンドボールの県代表に廿日市高(廿日市市)が出場した。平田先生の計らいで、ライン引きなどをする補助員を修道が担当することになり、現在の佐伯区五日市や廿日市市方面から通う生徒に声がかかった。廿日市高のメンバーと親睦を深めやすいようにとの配慮があったようだ。中学生は私1人で、あとは高校1年の先輩ばかりだった。大会後、廿日市高からハンドボールを教えてもらえることになり、五日市中(佐伯区)の運動場で初めてボールに接した。それがきっかけで高校1年の時に修道ハンドボール班が正式に発足した。

 国民学校4年から野球をやっていたので、運動神経、特に肩の強さには自信があった。ハンドボールのポジションは攻撃も守備もするセンター。178センチの身長を生かし、50メートルくらいボールを投げられた。印象的だったのは、3年生でキャプテンだった時に、修道高初の全国総体出場が決まった試合。相手は福山市の盈進高。前年までは接戦の末に負け、その時に初めて勝った。その後は何度も全国総体に出場する伝統校となった。ただ、進学校だから優勝するようなところまではいかなかった。

  ≪立教大に進学し、上京する≫
 大学でもハンドボール部に入った。ただ、学級委員との両立が難しかった。立教大では当時、60人クラスで成績上位2人が学級委員になると聞いていた。学級委員会に出ないといけないが、そうするとハンドボール部の公式練習ができない。いつもキャプテンとけんかになり、夏休みの終わり頃に退部した。

  ≪大学も1年でやめ、中央大に移る≫
 中央大商学部に通う修道の同級生が願書を下宿に送ってくれ、締め切り日に出願した。受験勉強はしていなかったが、高校の時に得意だった人文地理に救われた。中央大でもハンドボールをするよう言われたが、立教大に悪いので断った。帰省時には修道中・高の指導をしていた。

(2023年1月28日朝刊掲載)

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