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連載・特集

『生きて』 ゼネラル興産会長 山下泉さん(1936年~) <6> 銀行時代

顧客のため宅建士合格

 大学時代に妻と知り合った。妻は東京・渋谷の食品会社の長女だったので、東京で就職するつもりだった。ある日、父親から連絡が来た。実家の近所に住んでいた広島県警出身で、呉相互銀行(現もみじ銀行)の取締役(後の常務)をしていた岡田(秋呂)さんから「呉相を受けに帰ってこい。ちょっと顔だけ立てて」と言われたという。試験を終えて実家に帰り、岡田さんに電話すると「銀行決まったけ、もうよそは受けなよ」と切られた。父親は「まあ10年ほど行けや」と言う。銀行に行けばいろいろな知識が付くし、他の職業にも役立つと思い就職した。

  ≪1960年、呉相互銀へ入行した≫
 最初の配属は広島市中心部の十日市支店。融資先の開拓を担当した。十日市町や榎町は問屋街。鉄鋼業の事業主のところへ行けば、鉄の市場価格や業界の状況を聞く。相手が取引先を探していれば紹介する。顧客のためにとことん動いた。信頼してもらえれば、取引先や同業種も紹介してもらえる。次の事業主のところで前の顧客から教えてもらった知識を披露すると「お前詳しいの」と信頼される。そういう仕組みを考え、融資獲得につなげた。

 当時は貸出金の一部を定期預金にしてもらっていた。だから融資と同時に預金も取れていた。64年の全店の預金獲得競争ではトップ。1週間の休暇付きの賞金をもらって東京五輪の開会式を見に行った。

  ≪69年、宅地建物取引士に合格する≫
 土地や建物を担保に融資をしていたため、不動産に詳しくならないといけないと感じたからだ。当時は開業しようとは思わず、顧客のため。いいかげんな処理が嫌だった。日頃の業務である程度の知識はあり、1週間の勉強で合格した。銀行の中で宅建士の資格取得は珍しかった。

  ≪広島支店へ転勤した。70年のことだ≫
 十日市支店は10年と長かった。広島支店では13人の後輩の教育も担当した。毎日、その日の取引先とのやりとりを聞いて、次の一手をマンツーマンで指導した。「山下学校」と呼ばれ、〝卒業生〟はみんな役員や支店長になった。

(2023年1月31日朝刊掲載)

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