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連載・特集

『生きて』 ゼネラル興産会長 山下泉さん(1936年~) <7> 起業

ビルありきの店舗募集

 呉相互銀行(現もみじ銀行)広島支店での活躍が見込まれ、呉市の本店営業部への異動を打診された。自宅は広電五日市駅(広島市佐伯区)の近くなので、呉まで通いたくはないと断ったが、専務から1年間で二つの課題をするよう言い渡された。本店裏の土地の買収と、個人と企業からの預金の増額だ。済んだら広島に帰してもらう約束で受けた。1973年2月14日に赴任し、6月30日に両方とも達成した。7月1日に辞表を提出し、7月末の退職になった。10年で独立するつもりが3年4カ月余計にかかった。

  ≪不動産業で起業する≫
 広島市中区富士見町でゼネラル興産を設立し、社員3人で始めた。事務所は6畳の広さのプレハブだった。不動産業は当時、個人経営者が多い業種で、個人客を相手にしていた。それを企業や商店の経営者向けの不動産業を中心にすれば、立派にやっていけるという確信があった。

 当時は「戦後復興第2期」とも言える建て替え需要が急速に拡大していた。市中心部の商店は、戦後にとにかく開業するための木造が多く、本格的な建物ではなかった。老朽化が進み、建て替えの時代に来ていた。高度経済成長期を迎え、企業は店舗や事務所、倉庫が手狭になっていて、設備投資意欲が旺盛だった。

  ≪開業後の約5年間は、小売店などが入る商業ビルのテナント募集やビル管理の仕事をした≫
 建築会社などからの依頼を受けてやっていた。ただ、テナントから「ビルの使い勝手が悪い」とクレームが来ることが次第に多くなった。この頃はまだ設計事務所に商業ビルの設計をした経験が少なく、店舗の入り口を含め、客の動線を重視した設計になっていなかった。ビルの外装が派手でテナントが目立たない、という苦情もあった。

 建築会社などから与えられた建物に、入居するテナントを探す、という仕事のやり方では、テナントに満足されないということに気付いた。買い物客が入りやすく、物がよく売れる店にするにはどうすればよいか。東京など先進事例を視察し、いろいろな勉強をして知識を深めた。そして、ビルの企画段階から関わるようになった。

(2023年2月1日朝刊掲載)

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