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連載・特集

『生きて』 ゼネラル興産会長 山下泉さん(1936年~) <11> メイプルレッズ

チーム結成・存続に尽力

 社会人になってからもハンドボールと縁が切れなかった。休みには広島市中区の修道中・高のハンドボール班を指導し、全国大会に出場するようになった。後輩たちが慶応大や早稲田大などのハンドボール部で活躍したことは大変喜ばしかった。

  ≪1994年に広島県ハンドボール協会の会長に就任する≫
 91年にバルセロナ五輪予選となるアジア選手権を広島市で実施することになった。ハンドボールでは日本初の大規模な国際試合だった。成功させるには概算で2億円に達する多大な資金が必要になった。日本リーグに所属する企業を訪ねて、寄付金集めに回った。94年の広島アジア大会、96年の広島国体の開催にも携わった。

  ≪イズミ女子ハンドボール部が94年に発足する≫
 96年の国体は広島で2度目の開催だった。当時、安芸高田市を拠点にする湧永製薬ハンドボール部は、男子日本リーグで優勝を重ねていた。男子同様、女子も実業団チームの育成が期待されていた。私は県ハンドボール協会の会長として、仕事で親交のあった地場流通大手イズミ(当時南区)の山西泰明社長、高西宏昌専務(当時)と数年にわたって交渉。結成の英断を取り付けた。

 選手や指導者集めにも奔走した。韓国からバルセロナ五輪金メダリストの林五卿(イム・オキョン)選手を獲得しようと、高西専務と何度も韓国を訪れて交渉した。世界選手権でプレーを見て強烈な印象を持っていた。私が彼女の親代わりとして責任を持つと、林選手を育てた韓国体育大の教授と約束し、入団が決まった。林選手を中心に強化を重ねた結果、創部3年で日本リーグ初タイトルに輝き、強豪チームとして名をはせた。

 しかし、バブル経済崩壊後の長期不況を背景に90年代後半は、企業スポーツが将棋倒しのように崩れる流れが止まらなかった。イズミも例外ではなかった。県体育協会の多田公熙会長や体育関係者から「広島の財産をつぶしてはならない」との支援があり、チームは2001年にイズミを離れてクラブチームとして活動することになった。私は理事長に就任。「広島メイプルレッズ」の名称で再スタートを切った。

(2023年2月7日朝刊掲載)

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