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連載・特集

広島サミット原点の地で <1> 遺骨すら帰らず

 1945年8月6日午前8時15分。米軍が史上初めて広島へ原爆を投下したことは知られている。しかし、頭上に落とされた人間の惨禍を、私たちはどれだけ認識できているだろうか。世界で核使用のリスクが高まる中、広島市で初の先進7カ国首脳会議(G7サミット)が開幕するまで100日を切った。核兵器の非人道性を胸に刻み、廃絶を訴える原点の地に首脳たちを迎えたい。

生きた痕跡も消された

 広島市安佐南区の被爆者八木義彦さん(88)は「原爆は悪魔の兵器だ」と言う。あの朝、父ときょうだいたち家族5人と生き別れた。遺骨さえ帰ってきていない。「みんな、生きた痕跡まで消されてしもうた」。残された者も地獄を見た。墓前に立つと思い出す。孤児になり、生きるのに必死だった11歳の自分を―。

 八木さんは当時、白島国民学校(現白島小、中区)の5年生だった。母は既に他界。11歳上の兄は召集され、父、姉3人、妹、弟、叔父と8人で西白島町に暮らしていた。

 「みな働き者でね。慌ただしくも、にぎやかな毎日だった」。製麺業を営む父=当時(52)=は今の八丁堀(中区)にも工場を構え、陸軍の食堂では軽食を出していた。姉は25歳、17歳、14歳。父を手伝う傍ら、母の分まで世話を焼いてくれた。「きょうだいげんかをした覚えがない。家業のせいか、ひもじい思いもせんかった」。あの日、全ては一変する。

原爆で家族失う

 八木さんは学校の校舎で被爆した。爆心地の1・5キロ北。崩れた建物からはい出ると、無残に焼かれた子どもたちが校庭に倒れていた。数百メートル先の自宅に走った。がれきと化し、家族の名を呼んでも反応がない。火の手が迫る中、あえなく国鉄の駅へ。郊外に暮らす祖母の元へ逃げた。

 8日、市内に戻り、一人で家族を捜した。自宅跡は製麺機の残骸が残るだけ。4歳の弟に似た男児がいると聞き、救護所にも駆けつけた。「猛、猛はおらんか」。いくら叫んでも返事がない。野宿して歩き、無数の遺体を見たが、家族の消息はつかめなかった。

 妹=同(7)=が祖母方に現れたのは、被爆5日後。大やけどを負った叔父=同(36)=も逃げてきた。「独りじゃなかった」と喜んだのもつかの間、祖母の元には親戚が相次ぎ避難し、3人で別の家に間借りすることに。11歳の少年は突如、2人を養う身となる。

 食料を求めて、疎開させていた着物を手に農家を回った。足元を見られてばかり。惨めで、悔しかった。ヘビもカエルも野草も食べた。家族を諦めきれず、復学もせず捜し続けたが、骨のかけらも出てこない。10月、ついに死亡届を出した。罪悪感が募り、目をつぶったまま書類を渡した。

 46年秋、兄が復員。翌47年に通学を再開させてくれたが、生活苦は続いた。中学2年から自転車のパンク修理や石炭運びで稼ぐように。暮らしが落ち着いたのは、食品卸会社の仕事に慣れてからだ。戦後10年近くたっていた。  63年に結婚し、幸せもつかんだ。が、原爆の影がつきまとう。翌春、早産で生まれた長女は無事に育ったが、続く2人を妊娠6カ月と4カ月で失ったのだ。妻幸恵さん(81)もあの日、白島にいた。父や祖母を奪われた被爆者だ。放射線の影響を疑い、原爆を憎んだ。

「軍縮生ぬるい」

 被爆50年の95年、八木さんは白島にある一家の墓にやっと、5人の名を刻んだ。被爆証言を始めたのも同じころ。共に戦後を生きた妹が2年前に逝き、あの日まで確かにあった家族の営みを語れるのは、八木さん一人になった。「軍縮では生ぬるい。あんな兵器は捨てないと」。命ある限り、その正体を伝え続けると、心に決めている。(編集委員・田中美千子)

[ヒロシマの声関連]

(2023年2月10日朝刊掲載)

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