×

連載・特集

広島サミット原点の地で <3> 「原子爆弾症」の死者

未知の病 なすすべなく

 横浜市に住む被爆者、安田泰之さん(87)の原爆の記憶は、1945年8月とともに9月に深く刻まれている。当時10歳。母が被爆死し、父三朗さん=当時(41)=を大黒柱に焼け跡で生活を再建するはずだった。その父も9月12日、入院先の広島逓信病院(現広島市中区)で息を引き取った。

 「首筋にやけどをしていましたが、元気に広島中を歩きよったんです。それが…」。遺体は、逓信病院で原爆の影響を調べていた広島県立医学専門学校(現広島大医学部)教授の玉川忠太さんが病理解剖した。胸部や腹部の溢血(いっけつ)斑、出血斑、脱毛…。解剖記録には放射線によるとみられる症状が記されている。

自宅で母犠牲に

 被爆前、安田さんは上流川町(現中区)で両親、弟、祖母と5人で暮らしていた。父は百貨店の福屋に勤務。「私がいじめられたときは、『けんかなら俺が行ってやる』と。優しい父でした」と懐かしむ。

 8月6日。国民学校4年の安田さんは集団疎開で広島県北にいたが、爆心地から約1・1キロとなった自宅は倒壊し、一帯に火災も広がった。母敏子さん=当時(31)=は自宅の下敷きになったまま犠牲になった。

 11日後の17日、安田さんは市郊外まで戻り、自宅で被爆した父と再会できた。弟と祖母も無事。「『母ちゃん焼け死んじゃった』と弟が涙を流して私に伝えました」。父は遺骨と遺品の指輪が入った缶を携えていた。翌日、父は安田さんを自宅周辺の焼け跡に連れて歩いた。

 その父も20日を過ぎてから「たまらん」と苦しそうにし始め、安田さんたちが大八車で逓信病院に運んだ。「トマトがいい」と聞けば、一生懸命探し歩いた。ただ、未知の「原子爆弾症」になすすべはなかった。「亡くなった時は何も考えられんかったです」

発熱や出血襲う

 被爆者は放射線で血をつくる骨髄などにダメージを受け、45年末にかけ発熱や出血といった急性症状が広がった。9~12月末の広島原爆の死者は市の動態調査で名前を確認できた人だけで約9千人に上る。「非人道的兵器」との批判が必至の実態を、使った米軍は打ち消すように振る舞った。

 45年9月6日、原爆開発計画の副責任者だったファーレル准将は「広島、長崎で死ぬべき者は死に、9月上旬時点で放射能のため苦しんでいる者は皆無だ」という見解を発表。米軍率いる連合国軍総司令部(GHQ)は19日、原爆報道も検閲の対象とするプレスコードを発し、日本側の原爆調査の研究発表も制限された。

 玉川さんの19例の解剖記録は、占領が開けた翌年の53年に刊行された「原子爆弾災害調査報告集」でようやく公表された。原爆資料館(中区)が昨年、核兵器の非人道性の証拠として光を当てようと企画展で展示。安田さんは、報告集では「安○三○」と名前を伏せられた父の記録の実名での展示に応じた。「二度と、私と同じような運命の人を出さないでほしい」と願ってのことだ。

 親戚の支えで戦後を生き抜き、結婚して娘2人を育て上げた。家族の幸せをかみしめながら、それを奪う戦争も原爆も許してはならないという思いを募らせてきた。「核兵器は絶対に使ってはならない」。先進7カ国首脳会議(G7サミット)で広島を訪れる首脳が放射線被害を直視し、心の底から理解するよう願う。(編集委員・水川恭輔)

(2023年2月12日朝刊掲載)

年別アーカイブ