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社説・コラム

「人間的悲惨」への想像力を ヒロシマを被爆地から伝える

【この記事は、Journalism 2023年2月号(朝日新聞出版)に掲載された】

■森田裕美

 原爆は威力として知られたか、人間的悲惨として知られたか―。

 大先輩に当たる中国新聞元論説主幹・金井利博氏(1914~74年)が半世紀ほど前にのこした言葉を、この1年、ことあるごとに反芻している。

 昨年2月、ウクライナに侵攻したロシアのプーチン大統領は、あろうことか公然と核兵器使用をちらつかせ、恫喝を続ける。世界はそれに触発されるかのように核兵器への依存を高め、軍拡にひた走っているように見える。広島に投下された一発の原爆が、人間にもたらす「悲惨」を取材してきた1人として、許せない気持ちでいる。

 金井氏の言葉は、原爆の威力については戦後、知られるようになり米ソを中心に核開発競争が繰り広げられた半面、原爆が生身の人間にもたらした痛みや苦しみは十分に知られていないのではないか、という問題提起である。その問いが今なお古びていないことに暗澹とした気持ちになる。そして、「人間的悲惨」を私たちはどれだけ伝えてきたか問われているのだと、身が引き締まる思いがする。

■社員の3分の1が犠牲に

 こんなふうに書くと、大仰に思われるだろうか。これには私が四半世紀余り在籍する新聞社のバックグラウンドが関係している。

 広島市に本社を置く中国新聞社は1945年8月6日、米国が投下した原爆によって壊滅的な被害を受けた。爆心地から約900メートルにあった社屋は全焼し、社員の約3分の1に当たる114人が犠牲に。生き残った社員も重軽傷を負い、朝日、毎日新聞社などの代行印刷で発行できたのは、被爆3日後の9日付から。再起不能と言われた新聞社が、疎開させていた輪転機で自力印刷の新聞を出すようになったのは1カ月ほど後で、広島市の本社に復帰して発行を再開できたのは被爆から3カ月後の11月5日付からだった。

 つまり中国新聞社もまた、原爆被害を知る当事者=「被爆者」にほかならない。半面、戦中には戦意高揚の一翼を担った反省から、戦後は「世界平和の確立」を社是に掲げ、原爆・平和報道を一つの柱としてきた。先輩たちが脈々と続けてきた報道の一端に、私も携わっている。「被爆地の視点」を肝に銘じながら。

 では中国新聞はこれまでどんな報道をしてきたのか(しているか)、簡単に説明したい。毎年8月6日(7日付)の朝刊紙面が原爆関連記事で埋まるのはもちろんのこと、年間を通じて原爆や核兵器に関するニュースを報じ、連載などに取り組む。広島で生活する以上、避けて通れないテーマだが、今の子どもたちはもはや祖父母さえ戦後生まれ。被爆という原体験を共有することはますます難しくなっている。

 そんな中、絶えず取り組んでいるのが、私たちが「原点もの」と呼ぶ取材である。被爆者や大切な人を失った人々の声に耳を傾け、記録する。埋もれている資料を掘り起こしたり別の角度から光を当ててみたりして、被爆の実情に迫る報道である。2020年度の新聞協会賞を受賞し、今も継続する「ヒロシマの空白」もその一つだ。

 次にその「原点」を後世にどう受け継ぐか、提示する方策にも頭をひねる。いわゆる「継承」をテーマとする取材にも力を入れている。反核・平和運動や、若い世代の取り組み、平和教育などを追うのも大切な仕事である。

 さらに、ヒロシマの今日的意味を伝える取材にも取り組む。世界の核被害者や、核を巡る国際情勢にも目を向け、積極的に取材し発信してきた。昨年は米ニューヨークの国連本部で開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議や、ウィーンでの核兵器禁止条約締約国会議などにも本社から記者が赴き、取材に当たった。

■「きのこ雲の下」の視点

 歴史的大事件として、ヒロシマナガサキが世界に報じられるとき、視覚的に提示される多くは米軍が上空から撮影したきのこ雲の映像ではなかろうか。そこから伝わるのは、大規模な破壊だ。

 14万人(±1万人)。

 原爆が投下された年の12月末までに亡くなった人数の推計である。この誤差とされる±1万人という数字の持つ意味を、私たちは考え続けている。被爆から78年がたとうとする今も、原爆被害の全体像は解明しきれていない。たった一発の原爆が何人の命を奪ったのか、その正確な数さえつかめていないのである。

 こうした甚大な被害は、その「威力」にのみ着目すれば、脅威から自国を守るという理由で核開発の動機にもされてしまう。しかし「人間的悲惨」に目を向ければ、核兵器がいかに残虐で絶対否定せねばならないか身に染みる。廃絶へと世論を動かす原動力にもなる。

 威力などの客観的事実にとどまらず、きのこ雲の下にいた人間の目線から、核兵器の非人道性を告発し続ける―。それこそが被爆地の視点であり、使命であると考えている。

 とはいえ、私も駆け出しのころからそんな使命感に燃えていたわけではない。家族に語るのはおろか思い出すのもつらい体験を記者に託す被爆者たち生の声を聞き、その人生に伴走するように取材を重ねながら、培ってきたものだ。それは地元に根を張る同じ生活者であるからこそできる側面があるのかもしれない。

 「なんでお前は生きているのかと言われてね…」。20年近く前、取材で被爆体験を聞いたおじいちゃんから不意に打ち明けられたことがある。被爆死した妹(当時13歳)の葬儀で親族から浴びせられた言葉だという。「優秀な妹の方が亡くなって、そうでない私が生きていることが、さぞ理不尽だったんだろう」と自らに言い含めるように語っていた。それまで何度も「あの日」の体験は聞かせてもらっていたが、そんな話をするのは初めて。おじいちゃんが心の奥深くにしまい込んでいた悲しみに触れ、ショックを受けた。

 広島で取材を続けていると、このおじいちゃんのように生き残ったことへの罪悪感を何十年も抱えてきた被爆者が少なくないと突き付けられる。きっと口を閉ざしたまま亡くなった人も多かろう。時をへて証言するようになっても、本当につらかったことは語られないのではとも思う。こうした「語られない語り」にどれだけ目を向け、迫れるかが被爆地の記者には問われている。当然ながらそれには経験や想像力、土台となる知識も求められる。

■核兵器の非人道性、心に刻む

 原点となった仕事がある。20年余り前に経験した「在外被爆者」を巡る取材だ。広島・長崎で被爆した後、帰国したりさまざまな事情で海を渡ったりして日本国外で暮らす人たちのことである。一口に「在外被爆者」と呼ばれるが、それぞれに歴史的背景も置かれている国情も異なる。

 ここで押さえておきたいのは、原爆が投下されたとき、広島には多様な人々がいたということだ。日本の植民地政策の下で朝鮮半島から移り住んだ人や強制的に連れてこられた人、「皇軍兵士」や軍属とされた人。欧州から来ていた聖職者や、教育を受けるために親の古里に帰っていた日系移民。中国や東南アジアからの留学生、米軍捕虜…。原爆は、敵味方の立場や属性を越え、無差別に人間の命を奪い、傷つけたのである。

 私が在外被爆者の取材を始めた当時、被爆から半世紀余りの時をへて在韓被爆者の郭貴勲さん(昨年末、98歳で死去)が、被爆者援護法に基づく健康管理手当の支給を求め、国などを相手取り司法の場で争っていた。

 日本にいても、海外にいても、被爆者は被爆者である。しかし、援護法は国籍を問わないものの、適用は当時、国内に限られ、在外被爆者は、法的な被爆者としての援護が受けられずにいた。2001年6月、大阪地裁が郭さんへの勝訴判決を言い渡すと、国は控訴する一方、援護法の枠外での支援策を模索するなど、在外被爆者を巡ってさまざまな動きが生まれていた。

 私は、治療を受けるため広島に滞在していた在韓被爆者に思いを聞くと共に、米国と南米のブラジル、パラグアイに被爆者を訪ね、百人余りに聞き取りを続けた。生い立ちから被爆当日のこと、なぜ海を渡り、その後の人生をどう生きてきたかまで。

 原爆孤児となり、生きるためブラジルに渡ったものの原爆後障害とみられる病やトラウマに苦しめられているきょうだいがいた。「日本人」として従軍した広島で被爆し、戻った古里では朝鮮戦争も体験、歴史に翻弄された米国籍のコリアンにも会った。ここでは書き切れないが、実に多様な一人一人の「記憶」と向き合い、追体験を重ねたことが、後の私の取材活動の根っこにある。

 同時に一連の取材は、被爆者援護行政の不条理を、被爆者が支援者と共に世に問い、政治を動かし、事態を前に進めていく―。そんなダイナミズムを味わう経験でもあった。

 2002年、韓国や北朝鮮に取材した同僚と共に担当したシリーズ「願いは海を超えて」は、第1部南米編から第4部提言編まで34回を数えた。訪ねることができなかった国にも手紙のやりとりで取材し、アンケートをまとめた見開き特集なども次々と展開した。そんな地元紙の頑張りは当時、広島にいる他社の記者にも何らかの刺激を与えたのではないかと思う。ライバル関係にある地元テレビ局や全国紙の記者たちも(広島支局だけでなく本社社会部の記者も)こぞって在外被爆者問題を取材した。メディアが競うように報道したことは、多少なりとも世論にも影響を及ぼしたはずだ。司法の場での争いを経て、在外被爆者への援護という分厚い壁は、長い時間を掛けながら少しずつ崩されていった。実際のところ報道にどれほどの力があったかは分からない。しかし良い意味でのメディアスクラムのような機運が生まれていたのではないかと思う。

 「8月ジャーナリズム」という言葉がある。毎年夏になると新聞やテレビが風物詩のごとく戦争や原爆に関する報道を繰り広げることをやゆする表現だ。ただ私たちは年間を通じて週1回「平和」のページを設け、日々のニュースや連載、特集、社説やコラムなどで原爆を報じており、「8月ジャーナリズムは当たらない」という自負がある。

 ところが、「原爆はもはや地方マターになっているのでは」と、別の地方で働く広島出身の同業者に投げ掛けられたことがある。確かに広島・長崎以外の地域で、原爆について報じられる機会は8月でさえ、そう多くないのかもしれない。しかし果たして本当に「地方マター」と言えるのだろうか。原爆被害者は国内外におり、核実験などによるヒバクシャは世界中に存在している。そして残念ながら、核兵器は過去の問題ではない。

■教訓忘れ去る人類の危機

 「核兵器が使われるリスクは冷戦時代以降、最も高まった」。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)は昨年、ロシアの暴挙を踏まえて指摘した。グテレス国連事務総長も「人類は広島と長崎の惨禍によって刻み込まれた教訓を忘れ去る危機にひんしている」と警告を発している。

 ロシアに限らない。「核なき世界」を掲げた米国のバイデン政権も、核抑止力を「最優先事項」と位置付け、中国やロシアなどの脅威に対処するため、同盟国への「核の傘」を強化するという。中国は核兵器を含めた軍備増強をさらに加速させる。北朝鮮は国際社会の批判をものともせずミサイル発射を再三強行し、先ごろは韓国攻撃用の戦術核の必要性を挙げて核弾頭の大増産を表明した。非人道兵器による脅し合いが、際限ない核軍拡を招き、人類を破滅に導くことは、冷静に考えれば分かることであろうが、日本国内でも敵基地攻撃能力をはじめ軍事力増強を求める主張が勢いを増す。

 2021年、世界の核兵器保有国9カ国が核兵器の製造や維持に費やした金額は、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の推計で、計約824億ドル(約1兆1千億円)に上った。2020年の推計額よりもさらに約65億ドル増えているという。地球上には今なお、1万2千発以上の核兵器が存在している。事故やテロリストの手に渡るといったリスクはもちろん、理性的でないリーダーが、怒りにまかせて核のボタンに手を掛けるような事態も杞憂とは言い切れない。今まさに人類全体の危機になっている。

■想像力の外にあるのが問題

 核を弄ぶ為政者、あるいは核を信奉する為政者は、核がもたらす現実からあえて目をそらしているのだろうか。

 「目をそらさないで」と訴え続けた人がいる。原爆の熱線で焼かれ真っ赤になった自らの背中の写真を示し、核兵器の残虐性を世界に訴え続けた長崎の被爆者谷口稜曄さん(2017年に88歳で死去)である。昨年上映された映画「長崎の郵便配達」でその人生を知った人もいよう。谷口さんは2010年のNPT再検討会議でこんなふうに訴えている。

 見世物ではない。でもどうか目をそらさないで、もう一度見てほしい―。

 歳月を経て、谷口さんのように原爆が生身の人間にもたらした痛みや苦しみを語れる人はどんどん少なくなっている。厚生労働省のまとめによると、被爆者健康手帳を持つ人は2022年3月末現在で11万8935人。平均年齢は84・53歳。近年は1万人に迫る減少ペースが続く。被爆者なき未来、戦争や核兵器の惨禍に実感がない世代には何ができるだろうか。

 ヒロシマをテーマに創作を続ける詩人の松尾静明さんから、以前こんなエピソードを聞かせてもらった。時は1965年。松尾さんは広島市内の喫茶店である会話を耳にし、耳を疑ったという。「日本だって核兵器を持ってもいいではないか」。会話の主は中学生グループ。被爆から20年ほど、すでに広島で「被爆体験の風化」が言われていた。衝撃を受けた松尾さんは、当時、詩を指導していた広島市内の中学校に協力を得て、生徒たちに意識調査をした。その結果、10%以上の生徒が核兵器の保有を肯定したのだという。

 松尾さんは戦中生まれだが、被爆は体験していない。それでも広島で原爆の爪痕に触れ、「原爆を持っていい」と考えたことはない。松尾さんは言う。「体験がないから原爆を否定しないのではなく、原爆が想像力の外にあることが問題なのだ」と。それは今の日本社会、あるいは世界にも通じる言葉ではないか。

 私たちに求められているのは、他者の痛みへの想像力だ。そして、被爆者がいなくなった後も残り、未来の人々の想像力に働き掛けることができるのは、「言葉」なのだろう。新聞記事で時代の記録を残す私たちの仕事は、その一端を担うことである。

■単なる舞台にならぬように

 ことし5月、広島で先進7カ国首脳会議(G7サミット)が開かれる。被爆地では、核保有国に廃絶を迫る好機と受け止める人も多い。参加する7カ国のうち、米国、英国、フランスは核保有国。英仏首脳の被爆地訪問は初めてとなる。広島に来る以上、被爆者の訴えを聞き、原爆資料館(広島市中区、平和記念資料館)で被爆の惨状を伝える写真や遺品と対面し、核兵器が何をもたらすのか直視してほしい。その上で、核兵器廃絶に向けた道筋や具体的な行動を考えるきっかけにしてほしい。

 心配なのは、「ヒロシマ」が単なる記号、あるいは舞台になってしまうことである。思い出すのは2016年5月のオバマ米大統領(当時)の広島訪問だ。原爆投下国のリーダーによる被爆地訪問は、とりわけ被爆者にとって長年の悲願だった。原爆が人間にもたらす痛みや苦しみを直接知ってもらうことで、核を手放すよう迫るためである。しかし分刻みのスケジュールは、被爆の実情に触れてもらうにも十分とは言えなかった。原爆の投下責任を問う声や謝罪を求める声が少なからずあったにもかかわらず、「歓迎」の同調圧力や、劇的な被爆者との対面が日米の「和解」の象徴として美化され、疑問や批判的意見が口にしにくかった面も否めない。「核なき世界」を掲げたオバマ米大統領が任期中に実現できなかったことに対するアリバイづくりに利用されたとの見方もあった。今回のサミットがその繰り返しであってはなるまい。

 金井氏は著書『核権力 ヒロシマからの告発』(三省堂、1970年)の中に、こんな言葉を残している。 「広島で生き残った人々の間にさらりとした『平和』が存在するというのはうそだ。広島の『平和』とは客寄せに便利な『看板』用語にすぎない」。

 続いて、広島で一瞬にして命を奪われた死者や戦後も被爆者が抱えてきた「怨念」についてつづっている。「ヒロシマ」のイメージが定型化、画一化され、「平和」という言葉が空虚なうたい文句となっていることへの戒めにも読める。

 同書で金井氏は、核兵器を開発し核戦力に依存しようとする国家権力を「核権力」と呼んで、「問題は核兵器という『物質』の側にあるのではなく、核戦力の主人たる人間の側にある」と突く。「『核権力』は実は人間臭いものであり、人間のことばと訴えを解し、人間的な勇気で立ち向かえる相手であることを忘れないでいたい」とも述べる。結局のところ私たちは、「人間」に立ち戻り、自らの責任を果たしていくしかないのだろう。

 先人の言葉に学びながら、被爆地の「いま」を時代の証言として記録する、「想像力の外」にある原爆や核兵器の問題を、「想像力の中」へ運び込む―。そんな役割を、これからも愚直に果たしていく。

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