×

連載・特集

広島サミット原点の地で <4> 医療の崩壊

看護学生 修羅場に直面

 爆風を受けてゆがんだ窓枠が痛々しく残る。爆心地から約1・5キロで被爆した広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院、広島市中区)の壁の一部を近くに移設したモニュメント。元看護師の林信子さん(95)=佐伯区=はつえを突いてそばの慰霊碑前に立つと、繰り返しなでた。指先には友人の名前があった。

 「顔を柱につぶされて息絶えた同級生もいました。自分がやらないといけない、と必死でした」。体の傷で白衣を血だらけにしながら被爆者の救護を続けた78年前の記憶を手繰った。

 当時、日本赤十字社広島支部甲種救護看護婦養成部2年生。戦地に派遣された看護師に代わり赤十字病院で主力として働いていた。「あの日」は当直明け。病棟でガーゼを洗っていると強い光を感じ、飛んできた何かが頭に直撃した。しばらく意識を失った。同級生が暮らすそばの木造の学生寮は崩壊。その後、炎に包まれた。

足りない医薬品

 「広島がやられたんだ。そう気づくと同時に患者の安否確認をしなければと思いました」。壊れた物が散らばる中、患者を地下室に逃がした。鉄筋で焼失を免れた病棟には、けが人が殺到。ロビーは足の踏み場もないほどだった。「助けて」と足首をつかむ人、水を求める人…。「修羅場でした」と声を震わせる。

 医薬品は足りず、消毒すらままならない。それでも必死に、けが人の背中からうじ虫を捕り、赤チンやチンク油を塗った。多くの人が救いようのないひどい傷を負い、翌朝には亡くなっていた。毎日のように病棟のそばで遺体を焼いた。かわいそうと思う感情に向き合う余裕すらなかった。

自らも体調悪化

 休みを与えられ、三次市の実家に帰ったのは約2カ月後。発熱し、歯茎からは血が出て何日も寝込んだ。当時は肺炎と診断されたが、多量の放射線により引き起こされる急性症状に重なる。林さんは被爆の影響だと考えている。

 ほかの病院も大きな被害に遭い、医師の被爆死は225人に上ったとされる。市内の医療体制は崩壊した。市内外から救護に当たった人も放射線を浴び、自らの体を危険にさらした。核使用は壊滅的で対処が不可能な事態をもたらす―。戦地で中立の立場で救護を担う赤十字国際委員会(ICRC)は、被爆地の実態を挙げ核兵器の禁止を求める訴えを強めてきた。

 ICRCに呼応し、2017年に122カ国・地域の賛成で核兵器禁止条約が制定され、21年に発効した。ただ、保有国は背を向け、22年2月にウクライナ侵攻を始めたロシアは核使用を示唆する。核兵器廃絶を願って70代で証言活動を始めた林さんもこの一年、ウクライナのニュースに胸を締め付けられている。「原爆であれだけ苦しんだ市民の思いを分かってもらわんと」

 先進7カ国首脳会議(G7サミット)では、首脳たちが主会場のグランドプリンスホテル広島(南区)や平和記念公園(中区)などへ移動する際、赤十字病院の慰霊碑に比較的近い吉島通りを通る可能性がある。「人類は一体となって、戦争を放棄し、正義と平和の支配する友情の世界を生みださねばならない」。その碑文は、核兵器も戦争もない世界を願う林さんの思いと重なる。(宮野史康、編集委員・水川恭輔)

(2023年2月14日朝刊掲載)

年別アーカイブ