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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] ハンセン病療養所の園歌 隔離正当化 音楽は利用された 歌手 沢知恵さん

 人生を豊かにし、声を合わせれば心弾む歌は、軍歌のように人を争いに駆り立てる恐ろしさも持つ。歌手の沢知恵さん(52)=岡山市=は全国のハンセン病療養所で作られた園歌を研究し、成果を「うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう」(岩波ブックレット)にまとめた。国の隔離政策の正当化に利用された一方で、入所者の生きる糧にもなった「二重性」を沢さんは指摘する。(論説副主幹・山中和久、写真も)

  ―療養所との関わりはいつからですか。
 牧師だった父は、交流のあった大島青松園(高松市大島)に生後6カ月の私を連れていきました。子どもを持つことが許されなかった入所者には鮮烈な記憶として残ったそうです。

 父は高校生の時に亡くなりました。25歳になり青松園を訪ねると、船を下りた桟橋で「知恵ちゃん、大きゅうなったなあ」と皆さんが泣きながら迎えてくれました。らい予防法が廃止された1996年のことです。この再訪を機に隔離の歴史を学び、園に通い始めました。けれど親しくなった人が一人、また一人と旅立っていく。最後まで寄り添いたくて2014年に千葉から岡山へ移住しました。

  ―なぜ園歌を研究しようと思ったのですか。
 青松園の教会で古い資料をめくっていて園歌の譜面を見つけました。入所者に「歌える?」と尋ねたら、その場で歌ってくれました。戦後、式典などが減り歌われなくなったそうです。誰がどんな目的で作ったのか、知りたくなりました。平均年齢が88歳となった入所者から何を学び、伝えていくかという段階です。18年、岡山大大学院に入り、青森から沖縄まで全13療養所を訪ねました。楽譜の収集や入所者への聞き取りから23の歌を確認しました。

  ―どんな特徴がありますか。
 歌詞には、官民で患者の強制隔離を進める戦前の「無らい県運動」のスローガンだった「民族浄化」「別天地」「一大家族」などの言葉が出てきます。それが明るいメロディーに乗って歌われることの恐ろしさ。こんな歌を歌わせた国への憤りと、一緒に歌った思い出と重なって押しつけられただけの歌ではなくなった「二重性」を突きつけられました。初期の作詞は職員と役人が多く、文芸活動が盛んになって入所者の作品もあります。その中にも「民族浄化」のような言葉が出てくることに驚きました。

  ―入所者は何を思い歌ったのでしょう。ブックレットに載る愛生園入所者の「そこであきらめさすというか、おれは『祖国浄化』のためにここに来たんや、と思うようにしとった」の言葉に胸が痛みます。
 差別され、排除されながらも国のためになると思うことでしか生きる理由を見つけられなかった。この二重意識を持たせた権力と政治が、その責任が問われないことへのもどかしさと痛みを感じずにはいられません。

  ―園歌でない「つれづれの」という歌も取り上げています。
 〈つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて〉は大正天皇の后(きさき)だった貞明皇太后が1932年に詠んだ短歌です。入所者に向けてではなく、職員たちに思いを託したものですが、「御歌(みうた)」として曲が付けられ各園で歌われたことは意外に知られていません。その2年前に初の国立療養所、長島愛生園(瀬戸内市)が開設されました。無らい県運動に皇室の限られた発信手段の短歌を利用したのです。

  ―音楽の残酷な側面を感じざるを得ません。
 園歌を採取する過程でなるべく本気で歌わないことを心掛けました。発せられた音は言霊となり、響いた時空間において真実になることを知る歌手だからです。音楽は強い。心や思考の支配に利用される危険性があります。私たちはそのことに意識的でなければなりません。

  ―ハンセン病をはじめ感染症にまつわる差別を日本の社会は克服できていません。
 日本人の過剰な衛生観念がハンセン病への差別と偏見を生みました。新型コロナウイルス禍では患者たちに加え、水商売に従事する人たちもバッシングされました。ハンセン病の歴史に向き合い、今も続く問題だと問い続けることが大事です。

■取材を終えて

 大学で音楽学を専攻し、韓国、米国でも暮らしたバックボーンを持つ。そんな沢さんによって消えゆく前に記録された園歌は、私たちに過ちを繰り返してはならぬと伝えている。

さわ・ともえ
 神奈川県生まれ。父は日本人、母は韓国人。東京芸術大在学中の91年に歌手デビュー。ピアノの弾き語りが基本スタイル。代表曲に「こころ」。98年、韓国で日本の大衆文化解禁の先頭を切って日本語で歌った。01年から大島青松園でコンサートを開く。21年岡山大大学院教育学研究科(修士課程)修了。高校生と中学生の母。

(2023年2月15日朝刊掲載)

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